今回の記事を作成するに当たりまして、私自身けっこう悩みました。
当然ですが、自分で判断せず、神様に祈り求めました。
すると、私の勝手な解釈かもしれませんが、神様から「是非やりなさい。」と言われたような気がしました。
この記事を通して私は、この世の中から、ルールを守れないマナーの悪い人達、常識に欠けた行動を取る人達、自分のことしか考えていないと感じる人達、などを晒し者にすることで、悪い行いをする人間が減り、少しでもより良い世の中に変えていきたい、という思いを伝えたいのであります。
決して私自身が高慢になり、神様に代わって悪人達を懲らしめるために作成するのではありません。
あくまで人間を裁かれるのは神様です。
聖書にもこうあります。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(新約聖書 ルカによる福音書 6章37節~38節)
私自身も同じようなことをすることがないように、自分自身を戒めるためにも行います。
ちなみに、このシリーズでは、車のナンバーなど、モザイクを入れずに晒します。
プライバシーの侵害などの、個人情報保護に抵触するのではないかとお考えになる方もいると思われます。
私もそのように考えました。
それでネット等で調べてみましたが、車のナンバープレート自体は、個人情報の漏洩には繋がらないようです。
よくよく考えたら、もしも車のナンバープレートで個人が特定されるようであれば、世の中のほとんど全ての人達が、個人情報をさらけ出して車に乗っていることになります。
このようであれば、異常事態と言わざるを得なくなり、ナンバープレートを隠して走行しなければならない事態になるでしょうが、実際には車のナンバープレートで個人が特定される心配は無いようです。
ちなみに、グーグルマップのストリートビューに関しては、車のナンバープレートにモザイクが入っていますが、それは自宅に駐車している場合が多いので、こういった場合は隠す必要性があるでしょう。
下手をすれば、知られたくない人に自宅を知られてしまう可能性も否定できませんからね。
そもそも、私はこう思います。
善良な人に対しては、個人情報保護法は大切でしょうが、悪人に対しては、むしろ個人情報が特定された方が、世の中のためではないでしょうか。
そうすれば、自分たちの身近からでも悪が減ることに繋がると思いますし、本人も恥をかくことで反省できるでしょうし。
悪人に対してはプライバシーの侵害は発生しない、という考え方で良いのでは、とも思うのですが、そうしますとやはり、高慢な人間が表れ「俺が懲らしめてやる」といった具合に、おかしな方向へ突き進む場合もあるので、何とも難しい部分ではありますが。
だいたい、個人情報保護法も、イルミナティにとって都合が良いから制定されたわけで、特定秘密保護法などはその典型でしょう。
それにより、裏側でなお一層、悪事を働きやすくなるのです。
特定秘密だ、と言えば法により公に晒されずに済むわけですから、運用次第で善良な法律にも天下の悪法にもなるということです。
まあ、いずれにしましても、個人情報保護法も特定秘密保護法も、庶民を守るためではなく、イルミナティ達のような悪人を守るための法律と言って差し支えないでしょう。
私が晒す人達は、確かに刑法犯ではありませんが、自分の利益のために他人の利益を損なっているわけですから、その罪は大きいと考えます。
何せ、聖書の掟に反逆しているからです。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章1節~2節)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。(新約聖書 コリントの信徒への第一の手紙 10章24節)
善悪の判断を行う時に、人間的な感覚で善悪の判断を行うと絶対に間違います。
例えば、お金を相手に貸す場合を考えてみてください。
相手が困っているからということで、救いの手を差し伸べるつもりでお金を貸すのでしょうが、本人は良いことをした、つまり「善」を行った、と考えるでしょうが、これが人間的な「善」の感覚になります。
しかしながらほとんど全ての場合、金銭面で苦境に陥る時というのは、得てして本人に問題があります。
つまり、多くの場合、堕落した結果でそのようになっているので、実のところ、神様の基準で言わせていただくと、お金を貸す行為は、ほとんど全ての場合で「悪」となるのです。
助けているように見えて、実は堕落に加担する行為、つまり、「悪」に加担する行為なのです。
このことは、キリスト教の教えを理解していないと、絶対に分からないことです。
貸すという行為は、返してもらうという見返りを求める行為にもなります。
人間的には、借りたものを返すのは当たり前にしか思われないでしょうが、神様からすると貸した側が「罪」に問われるわけです。
どうしても相手にお金を貸してあげたいと思うなら、相手にあげるつもりで渡しましょう。
聖書にもあります。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。(新約聖書 ルカによる福音書 6章34節)
そもそもですが、私の経験上、お金の貸し借りは、ほとんど全ての場合で人間関係のトラブルに繋がっています。
皆さんも思い当たる節が大いにあると思います。
お金の貸し借りが真に「善」であれば、人間関係が必ず良好になるのですが、基本的に逆が起きますので、その事実から考えても、「悪」と言わざるを得ませんし、「悪」だからこそ、人間関係がトラブル化するのです。
従いまして、善悪の判断を行う時は、必ず神様の基準で行い、聖書の基準で行わなければなりません。
聖書は神様が書いた書物ですので、聖書に書かれてあることは神様の基準で善悪が書かれています。
このシリーズでは、基本的に神様の基準で「悪」と思われる案件を記事にしていきます。
勿論、神様の基準の「悪」と、人間的な感覚の「悪」が一致する場合も沢山あります。
余談ですが、振り返ると、私の会社の退職した2人の従業員(神様から悪人認定された2人の従業員)は、私の活動(神様のための活動)をストップさせるような発言をしていました。
1人は、ラプト理論を広めようとしていた私の行為に対して「しない方がいい」と言いましたし、もう1人は、今回の記事で「個人情報の侵害」を指摘しましたから、どちらも「悪」の味方をしたということです。
今回は3件ご紹介します。
1つ目です。
これの何が悪いのか、と言われそうですが、時間帯は17時~17時半の夕方ラッシュの時間帯での出来事でした。
この車は、片側2車線の走行車線の途中から、店舗に入るために右折しようとしているのですが、この写真には写っていませんが、実のところ、左側の車線からは後方から車両が続々と接近していましたので、私は車線変更できずに待つしかない状態でした。
これは多くの人がご存じないと思いますが、実は、道路交通法で禁止されている行為なのです。
車両は、歩行者又は他の車両等の交通を妨害するおそれのあるときは、道路外の施設若しくは場所に出入りするための左折若しくは右折をし、横断し、転回し、又は後退してはならない。(道路交通法 第25条の2 第1項)
即ち、当該車両は、この法律の条項に違反しているということです。
と言いますか、法を知っているかどうかよりも、人間性の問題だとは思いませんか。
自分の欲求(手っ取り早く店舗に入りたい欲求)を満たすために周囲の不利益を全く顧みない、自分勝手極まりない人間が運転していると断定するしかありません。
はっきり言いますが「悪」です。
私であれば、後続車両の迷惑を考えて、まずこの状況下で当該車両のように振舞うことはできません。
先の交差点で右折をするなり、対向車がいない間隙を縫って右折をするなりして、周囲の車両等に不利益を与えないように行動します。
勿論、交通量が少ない場合は全然問題ありません。
法の規定も「交通を妨害するおそれのあるとき」と定められていますから。
交通量が多い道路上での、この車両のような右折行為は絶対にやめましょう。
2つ目です。
この車の何が問題だったかと言いますと、私を後方から煽ったのです。
私を追い抜いて信号停車した写真です。
余談ですが、車のナンバーからして、「6」と「9」のオンパレードで、悪魔的と言わざるを得ません。(笑)※「9」も「6」の反転ですので、サタンの世界では「9」と「6」は同じという考え方です。
写真の左上を見ていただければお分かりいただけると思いますが、この道路は制限速度50の道路です。
私は速度50後半で走行していました。
これは、同乗者に撮影してもらった写真ですが、この写真からはそれほど煽られているように見えませんが、この直前にはもっと接近されていました。
私が速度30キロ程度のノロノロ運転をしていたというなら煽られても仕方ないですが、ルールを守って正しく走行している車を煽る行為は、絶対に行ってはいけません。
「善」(制限速度を遵守)に対して「悪」(煽り運転)で報いている行為だからです。
これも、自分の欲求(もっとスピードを出したい欲求)を満たすために相手に不利益を与えている行為になります。
「俺は急いでいるんだ。もっとスピードを出して走れ。」とでも言っているのでしょうか。
はっきり言いますが「悪」です。
煽り運転は社会問題にまで発展し、ドライブレコーダーの普及に繋がった程です。
多くの人達が口では煽り運転を「悪」と言っていますが、その実、行動では自分がハンドルを握ると平気で煽り運転を行っているのです。
私は昔から(キリスト教を知る以前から)周囲の人達に言っていることがあります。
人間は、口では何とでも言えるが、行動では嘘を付けない、と。
多くの人間が、偽善者である所以です。
聖書にもこうあります。
主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(旧約聖書 イザヤ書 29章13節)
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。(新約聖書 ヤコブの手紙 2章14節)
皆さんも、この車両のように、ルールを守る正しい運転を行っている車両に対して、煽り運転を行うのは絶対にやめましょう。
3つ目です。
これが正義の味方を装っている偽善者の実態です。
そうです。
私が偽善者と表現したのは警察です。
原付を取り締まっている様子ですが、時間帯は17時~17時半の出来事です。
はい、またまた夕方のラッシュの時間帯です。
この写真では、交通量が大して多いようには見えませんが、写真の信号が青に変われば、大量に車が流れてきます。
この状態では、対向車線の左側を走行している車両は、車線変更を余儀なくされます。
一般交通に迷惑を掛けてまで、その原付を捕まえなければならなかったのか、と言いたいです。
この光景(取り締まりのために平気で路駐する警察車両)は、本当によく目にする光景です。
勿論、ルールを破って走行した原付にも問題はありますが、取り締まるのは勝手だが路駐をするな、と言いたいのです。
はっきり言って、警察は庶民の敵です。
本当に警察は、百害あって一利なし!!と言って過言では無いでしょう。
速やかに車両を邪魔にならない場所に移動させた上で取り締まるなら結構です。
公務のためなら何でもありという行為は、たとえ法律で規定されているとしても、自分勝手で高慢と言わざるを得ません。
そもそも、「公務のためなら何でもあり」という考え方は、創価学会の「学会の利益のために行った犯罪は犯罪にならない」という掟そのものであると言えます。
まあ、警察と創価学会は密接に繋がっていますから頷けますが。
これも同じく、取り締まる側の人間性の問題です。
はっきり言いますが、やはり警察のこの行為も「悪」です。
現場保存という屁理屈を言うのでしょうね。
今のご時世は、スマートフォン一つで写真が撮れるわけですから、現場保存と言うなら、写真撮影した上で、速やかに警察車両を移動させれば済む話でしょう。
ちなみに私は、この世の中から悪の味方である現在の警察が滅びて、真に正義の味方、庶民の味方となる警察の誕生を神様に祈り求めています。
今回は、以上の3件をご紹介しましたが、いずれも神様が裁いて下さることを切に願います。
今回の私の記事の作成が、神様の目から見て罪に当たれば、私が裁かれます。
記事をアップした後で、それが明確になるでしょう。
冒頭で「神様から記事を作成するように促された」と書きましたが、それはあくまで私が受けた霊感であり、必ずしも正しいとは言えません。
だからこそ、記事の作成に踏み込みました。
行動を起こせば、それが正しいか間違いか、必ず神様が教えて下さるからです。
もしも、今回の記事に難癖を付けてくる人がいたとしても、その難癖に正当性が無い限り、記事を削除したり、シリーズ化を停止したりはしません。
あくまで、神様からストップがかかり、私が裁かれたと感じた時にのみ、記事の削除や更新停止を決断します。
私が神様から「是非やりなさい」と言われたような気がした根拠を説明しますと、この記事を作成すべきかどうか祈り求めるようになってから、今回挙げた出来事が立て続けに起きたからです。
しかも、今回挙げた案件だけではありません。
特に車の運転中に、不快になる出来事が起きているのです。
勿論、頻繁ではありません。
それこそ、1日に1回あるかどうかといった具合です。
しかも、写真を取れる機会にも恵まれるのです。
都合よく信号停車できて撮影出来るので、神様から手助けされているのではないかと思うほどです。
特に、車の運転はその人の人間性が表れますので、皆さんも注意しながら運転しましょう。
ちなみに、今回のシリーズとは逆の「こんな良い人がいました」というシリーズも行いたいと考えています。
今回は車に関する内容でしたが、車の内容だけとは限りません。
皆さんが見かけた善人、悪人を、私の記事で紹介してほしい案件がある方は是非、コメント欄か、メールで伝えていただければと思います。
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