人間は男も女も「やるべき」ことを「やりたくない」と思って滅び去り、「やってはいけない」ことを「やりたい」と思って滅び去る。

キリスト教

今回の題名は、2023年3月13日のRAPTさんの有料記事のタイトルです。

実際の御言葉は、2022年12月15日に宣布されています。

私は、この御言葉のタイトルを見た時に、私の考え方が間違っていなかったことを改めて悟りました。

ちなみに、今回も豚のイラストにしましたが、読んでいくうちに分かると思います。

私は、それこそ約10年前から、以下のように周囲に語っていました。

生活においても仕事においても、自分がやりたいと思うことは、やるべきでない場合が多く、自分がやりたくないと思うことほど、やるべきことである場合が多い。

私はもしかすると、この頃から神様から知らず知らず霊感を受けていたのかもしれません。

分かり易いところで言いますと、以前の私は、パチンコがしたくてしたくて堪りませんでした。

当然ですが、パチンコなんてやらない方がいい、いや、やってはいけないレベルのことです。

仕事においても、当時は幹部という立場でしたので、取引先に挨拶及び営業のため、会社の事務所や工事現場に赴くのですが、面倒なのでどちらかと言えば、やりたくありません。

しかし、そうすることで相手に名前と顔を覚えてもらえますし、そうすれば良好な関係構築ができ、いざトラブル等問題が生じた場合に対処し易くなります。

やりたくなくても、やるべきことであることが分かります。

ちなみに、私がこのような考えを持つに至った経緯は、実は、テレビドラマからでした。

2005年のNHK大河ドラマ義経での話になります。

2005年当時の私は、まだ30歳手前でしたので、まだまだ若輩でしたから、この当時は、その考え方には至っていませんでした。

約10年前に、そのドラマをDVDで再視聴しました。

中井貴一演じる源頼朝が、滝沢秀明演じる源義経に、以下のように諭す場面がありました。

「情」は一切必要ない。※確か「身内の情など要らない」と言っていたと思うのですが、多少記憶違いがあるかもしれません。

当時(10年前)の私は、このセリフに物凄く感銘を受けました。

当時(10年前)の私は、勤務先で役員になっていましたので、自分の運営方針にすべきだと感じたのです。

これが、RAPTさんの御言葉と見事に合致します。

「情」とは、まさに、「やりたい」と考えることであり「やりたくない」と考えることです。

「理」とは、まさに、「すべき」と考えることであり「すべきでない」と考えることなのです。

実際に、「理」で行動する方が、間違いがありませんでした。

また、神様はRAPTさんを通して御言葉の中で、欲深い男たちを強烈に批判しています。

少々、笑ってしまう人もいるかも知れませんね。

そもそも、男たちが「やりたくない」とか「やりたい」とか考えて御言葉に従わないのは、それだけ欲望が強いからだし、欲望の強い男ほど醜い者はない。金銭欲に溺れ、性欲に溺れ、名誉欲に溺れている男たちを見なさい。まるでゴミのよう、汚物のようだ。彼らの体からは常に悪臭が放たれ、近づくだけでも汚らわしい。感情的な女がまるでハリネズミのようだとするなら、欲望にまみれた男たちはまるで汚物にまみれた豚のようだ。豚たちは自分の排泄した糞尿にまみれても一向に気にすることなく、欲望の赴くままに食べてブクブクと太っていく。結局、彼らがどんなに肥え太っても、最後は殺(とさつ)されて終わるだけなのに、自分が肥え太っていくのを見て、自分は正しかった、自分は賢い選択をしたなどと思って自惚れる。

私の身近にも、このような人達ばかりと言って過言ではありません。

それこそ、退職させた従業員達が、まさにこの部類でした。

ちなみに、欲深い人達は、知らず知らず悪臭を放っているようですから、用心しましょう。

どんなに毎日お風呂に入ろうが、関係ないということですね。

RAPTさんが仰せになるには、加齢臭もその類だそうです。

それでは3件、当時(10年前)の私が経験したエピソードをご紹介します。

①50代の従業員が、私にお金の件で相談をしてきました。

私は役員とは言っても実務を行う役員で、事実上の運営トップでした。

従いまして、従業員とも距離が近く、毎日のように、従業員の多くと接していました。

ゴールデンウィーク前の出来事でした。

50代の従業員(以下「Tさん」とします。)が、私に「お金の都合をつけてほしい。」と相談してきました。

Tさんには、新潟に住む息子さんがいて、近く結婚するということでした。

それでお金が必要だということで、週払いのお金を多めにほしいと言ってきたのです。

私は当時から、ルールを逸脱して従業員へ便宜を図ることを快く思っていませんでした。

ただし、誰かのため(例えば家族や子供のため)に、一生懸命頑張っている従業員については、ルールの範囲内で便宜を図ってもいましたし、個人的にお金を都合したりもしていました。

しかしながらTさんは、息子さんが結婚するにも関わらず、いつもと同じように勤務し、日曜日は休む、夜勤は出ない、など、私から見ても、周囲から見ても、頑張っていると感じる勤務の仕方、仕事ぶりではありませんでした。

給料体系が日給でしたから、出勤回数を増やして稼ぐことになります。

当然ですが、日曜日に出勤する、昼も出勤し夜も出勤する、といった勤務は、通常はすべきではありません。

私は子供を持つ経験がありませんので分かりませんが、お子さんの一生の晴れ舞台をお祝いしたいと思う親心があれば、少々無理をしてでも出勤頻度を増やしてお金を稼ごうとするのではないでしょうか。

私は、従業員がいつもと違う働き方をしている時は、敏感に感じ取っていました。

何かがあるから出勤頻度が増えているのです。

しかしTさんには、それ(いつもと違う雰囲気)が全くありませんでした。

もしもTさんに、「息子さんのために」という必死さがあれば、便宜も図っていましたし、個人的にも支援していましたし、そもそも無理な勤務をも止めていたことでしょう。

私はTさんに、「お金の工面は一切できません。」と冷たい返答をし、しかも、少々説教までしてしまいました。

「お金が必要であるならば、なぜもっと必死に仕事を頑張らなかったのか。」と。

私はTさんのように、何の努力もせず安易に周囲を頼る人間のことが、過去の自分を見ているようで、当時から大嫌いでした。※若い時の私も、このような部類の人間でした。

しかしながら、私の立場にいるような多くの人は、このような場面に遭遇したら、頼って来た相手に良く思われたいと考えて、便宜を図っていたと思います。

これがまさに「情」での判断になります。

そうすれば、Tさんにも感謝されていたことでしょうから。

しかし、私はたとえTさんに嫌われようとも恨まれようとも、頑張ってもいない者のために支援することはできませんでした。

これが「理」での判断になると言えるでしょう。

結果的に、私は彼に相当嫌われてしまったようですが、道理の分からない人間、物事の分別も理解できない人間から好かれようとは少しも思いませんので、全く気にもなりませんでした。

申し訳ないですが、50年以上も生きて来て、何を学習してきたんだ!!、と言いたいくらいでした。

ちなみに、私の後任として運営のトップに就任した後輩(役員ではありません。なお、3つ目のエピソードに登場します。)は私とは違って、Tさんに常に便宜を図ったせいで、事あるごとにお金のことで頼って来ていたようでしたが、詳細は割愛しますが、最終的には、Tさんに裏切られる結末になっていました。

「情」に囚われた後輩の末路です。

②私自身が作った厳しいルールを断行せざるを得ない、辛い状況を経験しました。

警備会社は、実態として派遣業であり、従業員は工事現場等の派遣先に直行します。

従いまして、全員が無事に遅刻等なく指示された勤務先に到着しているかどうか、電話連絡を義務付けていました。

しかしながら、それを怠る従業員(以下「Iさん」とします。)がいました。

人間ですから、うっかり八兵衛で電話連絡を忘れることもあるでしょう。

しかしながら、Iさんは、一度や二度ではなく、再三に渡り電話連絡を怠り、注意をしても改善されないという有り様でした。

そのために私は、朝の電話連絡を忘れた場合、当該現場で従事する全員を遅刻と見なし、その時間分の給与を減額する、というルールを決めました。

要するに、連帯責任を取らせる、というルールになります。

正直に言いますと、私はこのルールを決めてはいたものの、実行するつもりはありませんでした。

ちなみに、Iさんが従事する現場は、Iさんを責任者として5~6名の従業員が勤務する工事現場でした。

私は内心、「このように厳しいルールを決めたからには、絶対に連絡を怠ることは無くなるだろう。」という思いがありました。

しかしながら、その思いは瞬時にして裏切られることになりました。

そのルールを決めて全従業員に通達し終えた二日後に、Iさんの現場で、朝の連絡を怠った旨の報告が私になされました。

「嘘だろう!!」と、正直なところ、私は動揺してしまいました。

役員室で一人になり、頭を抱えて考えました。

決めたルールを断行すべきが、今回は情状酌量するか、を。

この頃の社内事情として、私が事実上のトップではあったものの、私自身、従業員達の多くからは完全に認められる存在までには至っていませんでした。

つまり、私は組織のトップとして、半ば舐められている要素が強かったと言えます。

物凄く悩みました。

悩んだ末に私は、厳しいルールであるからこそ、断行して全体への見せしめとし、私のもとで組織を強靭化しなければならない、その第一歩だ、と自分に言い聞かせました。

給料減額を断行すれば、遅刻していない者まで遅刻扱いされるわけですから、彼らは理不尽だと考えるでしょうし、私は猛反発を受けるでしょうし、場合によっては労使間トラブルにさえ成り兼ねません。

それを覚悟で、夕方、Iさんの現場で従事した6名を会社に呼びつけました。

そして、「ルール通り、全員の減給処分を実行する。」と6名に直接言い渡しました。

するとIさんが、「みんなの分を私から減給してください、私の責任なので、みんなからは減給しないでください。」と、みんなの前で私に縋るようにお願いしてきました。

当然の言い分かもしれません。

しかし私は、「このルールを全員承知していたはずですよね。なぜ他のみんなも、Iさんに対して、会社に連絡をしたかどうか確認しなかったのですか。何も連絡は現場責任者であるIさんが実施しなければならないルールにしていないはずです。連帯責任を問われる事に対して、みんなでミスを防ごうと、なぜ行動しなかったのか。6人もいて、誰一人として促す人がいなかったことが残念でなりませんよ。私が問題にしているのはそこです。」と説教しました。

これには、誰一人反論できなかったようです。

しかし内心では、私に対して反感を抱いていたことでしょう。

結局のところ、私は断行し、当該現場従事者全員を減給処分にしました。

まあ、このルール自体を決めたことが間違っていたのかもしれません。

しかしながら、組織のルールとして一旦決定した以上、情にほだされて甘い態度で接していては、組織を束ねることなどできないと考えました。

私は、当該6人がみんな退職しても構わないと考えていましたし、ひどい人間だと思われても構わないと考えました。

結果的には、この6人が、この件で退職するということはありませんでした。

ただ、私はこの一件で、より一層自分に厳しくしなければならないと決心しました。

当然と言えば当然ですが、他人に対して厳しい姿勢で臨んだのですから、それ以上に自分に厳しくしなければなりません。

そうすることで、従業員も私のやり方に納得してくれるものと考えました。

当時、人事考課制度を社内で取り入れていましたが、評価を受けるのは従業員だけでなく、評価を行う側である自分自身をも戒める掟のようなものを定めて、全従業員に公開しました。

従業員へ指導、教育する立場にある人間こそ、その指導、教育の内容に沿って、仕事も人間性も磨いていかなければなりません。

③私の後輩(以下「T君」とします。)が運営トップであった時、断るべき案件を受注して、部下たちを混乱させました。

これは、どこの会社でもよくあることではないでしょうか。

仕事量も飽和状態で、これ以上受注できない状態になっていた時の出来事でした。

とある取引先から急な要請(翌日の案件で、警備員1名の手配依頼)があり、事もあろうに、T君は断り切れずに受注してしまったのです。

厳密に説明しますと、一旦、T君から管理職者たちはこの件について相談を受け、全員一致で今回は断るという結論に至ったのですが、取引先からゴリ押しされて(「1人も出せないなんて有り得ないだろう。」みたいなことをしつこく言われたようです。)、結果的に受注したのです。

この話ですが、あたかも取引先の奴隷状態であるかのような話に感じませんか。

人を提供する商売ですから、人がいなければ受注できません。

それ位の事は、小学生でも分かるくらいのレベルの話です。

しかしながらT君は、自分が悪者になることを恐れたのか、あるいは、相手から文句を言われることを恐れたのか分かりませんが、断ることが出来ずに受注したのです。

T君は「私が要請のあった現場に行くので受けました。」と言っていましたが、事実上の運営トップの彼が現場に出て、部下たち(管理職の者たち)が事務所でのうのうと内務を出来るわけが無く、代わりに誰かが出ることになるのです。

管理職の者たちには、それぞれの業務や予定があるのに、T君の判断に振り回されて、業務や予定の変更等を余儀なくされたわけです。

管理職の者たちの業務や予定とは、身内だけでなく取引先の相手との約束の場合もありますので、広範囲の方々に影響が及ぶことも少なくないのです。

T君は、とんでもない奴です。

自分の保身のために、誰かに不利益を与えるなど、言語道断です。

ちなみに、この時の場合は急な要請でしたから、断ったとしても特段問題はありませんでした。※取引先との契約内容に、急な要請の場合は対応できない時もあるという内容もあったからです。

まさにこの出来事は、「情」を優先するとどうなるか、ということの典型例でした。

そして、詳細は割愛しますが、案の定、同じような出来事(取引先の奴隷状態)が起きたのです。

しっかりとT君が断っていれば、何の問題もありませんでした。

その時点では、T君は精神的に辛い思いをしたでしょうが、それにより、社内においては予定通りスムーズに業務が成されていくわけで、更には、将来同じようなことが起きることを回避できた可能性を考えますと、どちらを選択すべきかは自明であると言えます。

以上、これらの出来事が、「情」と「理」を考える内容として相応しいかどうかは分かりませんが、紹介させていただきました。

経験から結論を申し上げますと、「情」で物事を判断する時というのは、間違いなく自分本位になっています。

一見すると、「情」とは相手のことを思いやっているように感じますが、実際には、自分の事しか考えていないという、一種の偽善的行為だと考えます。

だから、「情」を挟むと結果が悪くなることが多いのだろうと感じました。

やはり、神様の御言葉通りだと改めて悟りました。

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