千利休切腹事件の推理

歴史

今回は、久しぶりに日本史です。

私は過去に、本能寺の変についての記事を書かせていただきましたが、その内容については以下をご参照下さい。

推測の域を超えませんので、推理小説的に見ていただければと思います。

本能寺の変の犯人は、明智光秀ではなくイエズス会である!?(その1)

本能寺の変の犯人は、明智光秀ではなくイエズス会である!?(その2)

そして今回も、私の推理による内容になりますが、RAPT理論からヒントを得て、私なりに推理したいと思います。

以下のRAPTさんのブログ記事も、是非ご参照下さい。

織田信長と徳川家康とイエズス会の因縁の関係。関ヶ原の戦いは「イエズス会」と「エリザベス一世」との代理戦争でした。

見出しの件につき、結論から言いますと、千利休切腹事件の真相は、千利休がイエズス会のスパイだと豊臣秀吉に発覚したため処刑された、と私は推理します。

過去の記事でも書かせていただきましたが、千利休はただの茶人ではなく、イエズス会のスパイだった可能性が極めて濃厚です。

本能寺の変の説と同じように、この世の中では千利休切腹事件についても、専門家がああでもないこうでもないと様々な説を言っています。

要するに、真実を知られないための攪乱工作です。

勿論、切腹に至る背景の全てが嘘とは言いませんが、核心部分は大嘘になっているということです。

そもそも、豊臣秀吉と千利休の仲違いのきっかけは、1590年に起きた豊臣秀吉による山上宗二殺害事件と言われています。

山上宗二殺害事件については、歴史に詳しい方でないとご存じないと思いますが、山上宗二は千利休の茶道の弟子と伝えられている人物です。

山上宗二 ウィキペディア

豊臣秀吉は遡ること1587年に、九州征伐を行った際に伴天連追放令を宣布し、イエズス会と敵対関係になりました。

豊臣秀吉は、もともと秦氏側の人物であり、イエズス会と手を組んで、イエズス会を裏切った織田信長の本能寺殺害に加担し、明智光秀に冤罪を仕掛けました。

ちなみに、私と同じように冤罪説を唱えているサイトを見つけましたので、興味のある方はご覧ください。

「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相

織田信長も元々は秦氏でしたから、イエズス会の支援を受けてのし上がったのです。

そして豊臣秀吉も、何らかの経緯からイエズス会と敵対関係に陥り、出雲族側に鞍替えしたものと推測できます。

少々話が反れますが、1586年に徳川家康が豊臣秀吉と和睦し主従関係を結んでいますが、豊臣秀吉が出雲族側に寝返る密約を徳川家康と結んだのではないか、と私は考えています。

一般に言われている説(母親を家康の人質に送ったなどの説)は大嘘だと考えます。

私は大河ドラマが大好きで、幾度も豊臣秀吉と徳川家康の和睦のシーンを見てきましたが、全く腑に落ちませんでした。

小牧長久手の戦いで事実上、徳川家康が勝利した(戦死者数が少なかった)わけですから、普通は逆が起こる、つまり、豊臣秀吉が徳川家康に屈服しないとおかしいわけです。

従いまして私は、豊臣秀吉と徳川家康が主従関係を結んだ時点で、イエズス会を裏切る機会を狙っていたと推理します。

徳川家康は出雲族ですから、イエズス会とは相容れない関係だったと言われています。

話を元に戻します。

ちなみに、山上宗二は豊臣秀吉に殺される直前、北条氏に仕えていましたが、私はこれもスパイ工作であったと考えています。

つまり、千利休と山上宗二が結託して(勿論イエズス会勢力としてです。)、北条氏を使って豊臣秀吉を討ち取る計画があったのではないかと推理します。

伴天連追放令でイエズス会に反目した豊臣秀吉の敵対勢力として、イエズス会が利用していたのが北条氏だったと考えます。

相模北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏とは別だという説が一般的ですが、私はこれも嘘だと考えています。

両者の家紋を見て下さい。

同じでしょう。※後北条氏とは相模北条氏のことです。

つまり、相模北条氏=執権北条氏であり、北条氏は元々秦氏と言われていますから、イエズス会が接近してもおかしくないのです。

この時期に豊臣秀吉に敵対していた戦国大名は、相模の北条氏だけでした。

だから山上宗二をイエズス会のスパイとして北条氏に送り込み、豊臣方に居る千利休と通じていたということです。

小田原征伐には、千利休も豊臣秀吉と同行していたと言われています。

小田原征伐は豊臣秀吉の日本国内での最後の戦争です。

しかも、全国を平定し、残る敵は北条氏だけという情勢にもかかわらず、一方の北条氏は最後まで豊臣秀吉に抵抗を続けました。

説によると、豊臣秀吉の軍勢は20万で、北条氏の軍勢は、その半分以下とも言われていますから、普通であれば北条氏も戦わずして降伏しそうなものです。

おそらくは、イエズス会の無理強いのせいで、北条氏は最後まで抵抗したのではないかと考えます。

そして山上宗二がイエズス会のスパイの一人であることが豊臣秀吉に発覚し、処刑されたと考えた方が自然ではないでしょうか。

豊臣秀吉の山上宗二に対する憎悪は異常なものがあり、耳と鼻を削ぎ落す残虐極まりない殺し方をしています。

ただの茶人が、ここまで天下人に恨みを抱れてしまうでしょうか。

そうしますと、千利休が山上宗二の命乞いを豊臣秀吉に行った、という説も嘘であろうと考えられるわけで、むしろ、千利休は山上宗二を見殺しにした、と考えられます。

千利休も悪魔崇拝者(イルミナティ)であることを忘れてはなりません。

おそらく、この時点ではまだ、千利休がイエズス会のスパイであることは、豊臣秀吉には発覚していなかったと思われます。

そして千利休切腹事件の直前、実に不可解な出来事が起きているのです。

それが、豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)の病死なのですが、私は敢えて、千利休による豊臣秀長暗殺事件と命名させていただきます。

まずは、豊臣秀長と千利休の死んだ日に注目します。

豊臣秀長の死去は1591年2月15日、千利休の死去は1591年4月21日となっています。※ウィキペディア参照。

実は、1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」では、豊臣秀長の妻が千利休の娘という設定になっています。

私はこれが真実ではないかと考えています。

しかもこの大河ドラマでは、豊臣秀長と千利休は信頼関係で結ばれていて、豊臣秀長の後ろ盾を失った千利休は死を覚悟した、みたいな描かれ方をしていましたが、これは大嘘でしょう。

婚姻関係を結んでいることが本当なら、千利休と豊臣秀長は義理の親子となり暗殺は有り得ないのではないか、と多くの人が思うでしょうし、ドラマの描き方についても自然な流れのように感じることでしょう。

しかしながら何度も言いますが、千利休も豊臣秀長も悪魔崇拝者であることを忘れてはいけません。

庶民には通用する理屈でも、悪魔崇拝者には通用せず、昔から骨肉の争いを繰り広げていますし、むしろ、危害を加える目的で自分の娘などを嫁がせスパイ工作を行ったり、美人を接近させるハニートラップのようなことを、この時代でも行っていたことと思われます。

実際に、イスラエルの王であったソロモンも、いわばハニートラップにやられた(異国の女性に惑わされた)格好になっていますから、旧約聖書の時代、つまり、今から6千年前にはすでにハニートラップという方法は使われていたということになります。

そして、劣勢の連続だったイエズス会が千利休を煽動し、豊臣秀長を暗殺させ、豊臣政権の弱体化を謀った、ということでしょう。

一応、豊臣秀長は豊臣秀吉の片腕と言われていた人物です。※真実は分かりませんが。

そして、豊臣秀長暗殺の犯人が千利休であったということが発覚し、しかも、千利休がイエズス会のスパイだったことまで分かり、豊臣秀吉は激怒して千利休を処刑した、というのが私の推理となります。

豊臣秀長も現代で言うところの政治家です。

現代でも多くの政治家の最期は病死となっていますが、RAPT理論によりますと、そのほとんどが病死ではなく暗殺のようです。

従いまして、豊臣秀長も暗殺されたと考えても、何ら不思議はない、むしろ、可能性大ということです。

ちなみに、千利休は単なる切腹ではなく、斬首だった可能性が高いです。

実際にウィキペディアにも、「死後、利休の首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)された。」と書かれてあります。

「梟首」とは、いわゆる「さらし首」のことで、罪人扱いされているわけですから、切腹というよりは斬首刑だった可能性が高いです。

いかがでしたでしょうか。

今回は、千利休切腹事件について推理しました。

次回は、豊臣秀次、つまり、豊臣秀吉の甥ですが、なぜ彼が切腹をする羽目になったのか、その経緯を推理したいと思います。

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