従業員の一人が、またしても神様から悪人認定されました。

神様の証

見出しの画像は、偽善者を表している画像です。

仮面を着脱しているということでしょう。

これは、我社の30代半ばの従業員の話ですが、今回、その従業員の裏に隠された悪を暴き出し、彼を捨てるように、神様が私を促されました。

まず、彼がどのような人間だったかと言いますと、誰が見ても善良な人物だと思える人間でした。

多くの人達から好かれ、謙虚さも兼ね備えた、一見すると出来た人間と言いますか、そのような人物でした。

しかしながら、今回の一件で、私は彼の人となりについて、騙されていたと確信するに至りました。

要は、彼も御多分に漏れず偽善者であったということです。

神様と通じていない人間達は、そもそも基本的には偽善者と言えます。

人前では善良な人間を装い、プライベートではありのままの自分で過ごす、誰しもそのように振舞うと思います。

そのこと自体を咎めるつもりは毛頭ありません。

私が問題にしているのは、善良な人間を装うことで、周囲に害を与えること周囲に不利益を与えることです。

それでは、その従業員と何があったかを、少々長くなりますが説明させていただきます。

先月末(2023年7月末)に、彼から「話があります。」と言われました。

彼の方から私に話があると持ち掛けてくれたことは初めてで、私の中では、最も信仰を持ってくれそうな人間だと評価していましたので、遂に決心したのかと思いましたが、同時に不安も感じました。

つまり、同じ決心でも、我社を辞める決心をしたのではないかと、ふと頭に浮かんだのです。

そして残念ながら、その不安が的中しました。

突然、退職を申し出て来たのです。

退職希望自体は、全く何の問題もありません。

何が問題だったかと言いますと、彼は退職するに当たり、退職日まで何もかも自分勝手に決めました。

本当に一方的でした。

普通、良識のある大人であれば、退職するに当たり、お世話になった会社に少しでも迷惑にならない形で退職しようと考えるはずです。

自分で結論を出す前に、会社と相談して退職日を決めたり、次の仕事のための段取り(休日の設定など)を相談するはずです。

つまり、極力相手の利益を損ねない形で行動しようとするはずです。

退職自体が会社にとっては不利益になる話(特に我社は人材派遣の業務ですから尚更です。)ですから、むしろ自分勝手に決められないはずです。

お互いが納得できる形で退職することが円満退職と言いますか、正しい退職の在り方と言えるでしょう。

しかし、彼は一方的に何もかも自分で決めた上で、私に話をしてきたのです。

相談も何もあったものではありません。

私が多少なりとも退職を先延ばしにするように説得するような話をしても、彼から感じた雰囲気が、「あなたの説得を受け入れるつもりは全くありませんから。」といったものでした。

自分の利益を優先し、他人の不利益など何とも思わない判断を平気で行ったのです。

新約聖書の「コリントの信徒への第一の手紙」の10章24節に、                          だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。                            とあります。

聖書でもはっきりと書かれてあることに反する行動を彼は取ったのです。

その時に私は、彼の人間性に騙されていたことを悟りました。

彼こそ、強力な人間サタンだと言えるでしょう。

実を言いますと、以前から私は、彼から悪人的な波長を感じたことが、しばしばありました。

しかしながら、私はその都度、気のせいだと自分に言い聞かせてきました。

私が彼から悪的な波長を感じたことを、3つ挙げさせていただきます。

①過去において彼は、自分の利益を守るため、悪に対して悪で報いました。

これも聖書にあります。

だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(新約聖書 テサロニケの信徒への第一の手紙 5章15節)

彼は過去に、人間関係のトラブルを解決するために、裏の組織の人間を頼ったのです。

自分でもやましいことをしたという認識を今でも持っているようで、その件について触れられることを極度に嫌がっています。

はっきり言わせていただきますが、この時点でアウトです。

人に言えないことをしたという時点で、神様の視点に立てば罪です。

人に言えてこそ、罪を、そして、悪を反省していることになると私は考えます。

隠す時点で、罪を反省する意識が無いと言えますし、そもそも悪人というのは、自分の起こした悪事は徹底して隠し、あらわになることを極度に恐れます。

実は、かく言う私も、過去に暴力団との関わり合いがありました。

そこから得るもの、失うものとありましたが、今ではその関係を完全に断ち切っていますから、過去のこととして反省する意味で、多くの人に話すことができるわけです。

しかも、私にとっては、暴力団と関わったことで、世間知らずだった自分が世間の実態を沢山知るに至ったという点においては、大いに益となりました。

勿論、何でもかんでも他人にべらべら話すことが反省していることになる、とは必ずしも言い切れませんが、少なくとも過去の失敗を教訓とする意味で、そして、二度と同じ過ちを繰り返さない宣言の意味も込めて、周囲に話をしているということです。

推測ですが、彼は今でも裏社会の人間と関係を持っているのかもしれません。

だからこそ、トラブルを対処してもらった過去の出来事を公に出来ず、隠す必要があるのではないかと邪推してしまいます。

もしも、今現在でも裏社会の人間と繋がりがあると周囲に知られたらまずいですからね。

それ以外に、他人に話せない理由が私には分かりません。

彼が秘密にしてきたことを私はこの場で暴露しましたが、残念ながらそのことは悪ではありませんから、法的措置を取ってもあなたの方が都合が悪くなるだけです。

そもそも秘密事項にする理由がさっぱり理解できません。

悪事を隠すことこそ悪です。

そうでなければ、裏組織と関わり合いが無いことを証明し、過去の悪事を洗いざらい公開することです。

時々彼からサタン的波長を感じることがあるのも、それが一つの要因かもしれません。

その人間と滅多に関わることは無いと仮定しても、関わる頻度が問題ではなく、そういった人間(暴力団などの裏組織の人間)と繋がりを保っていること自体が問題であり、だからこそ、常に彼の周囲にもサタンが群がり易くなっていると考えられます。

②善良な人を装っている反面、陰では結構、彼は人の悪口を言い、しかもその時の彼の雰囲気が、悪人が悪人を批判しているように感じていました。

悪人が悪人を批判する場合の特徴として、自分の利益が損なわれたことに執着していることが挙げられます。

一方で、善人が悪人を批判する場合、神様の利益が損なわれた、他人の利益が損なわれた、ということが前提であると考えられます。

従いまして、批判の仕方が全然異なります。

前者では被害者が自分、後者では被害者が他者、と表現した方が分かり易いでしょうか。

彼は、自分がされた仕打ちのことで、相手を悪く言っていることが多い印象でした。

基本的に悪人の論調は、自分は一方的に被害者で、相手が100パーセント悪い、という論調です。

残念ですが、自分が相手から何らかの仕打ちをされる場合、得てして本人にも問題がある場合がほとんどです。

まずは、自分の落ち度を反省せよ、と言いたいです。

私の場合は、基本的に自分がされた仕打ちよりも、誰かに不利益が及んだ場合に相手を痛烈に批判します。

その違いは大きな違いです。

勿論、私も人間ですから、弱い部分も沢山ありますし、自分がされた仕打ちのことで怒る場合も多々ありますが、そのような中にあっても、事実に反することを誹謗中傷された場合に怒るように努めています。

事実に反することを周囲に広める行為は、神様の世界において罪です。

私は自分の落ち度を一番に考えて、一歩引いて考えるようにしているのです。

よくよく振り返ってみると、彼にはあまりそういった部分は見受けられませんでした。

③運転している雰囲気が、私には悪人にしか見えませんでした。

これは具体的には表現しにくいのですが、運転方法が悪いという話ではありません。

暴走したり、交通ルールを無視したりといった行動のことではなく、運転席に座っている姿自体が、なぜか悪人に見えることがしばしばでした。

私が関わった悪人達と雰囲気がそっくりだった、という表現しかできないくらい、何とも表現しにくいのですが。

それこそ、一年前に退職させた従業員(この人間も人間サタンと表現できるほどの悪人でした。)と雰囲気がそっくりだったのです。

私の感じ方に何か間違いがあるのだろうと、自分でも必死で打ち消すようにしていたことをよく覚えています。

しかしながら、今更ながら私はこう思うのです。

車の運転というのは、その人の本性が表れると考えていますので、真に優しい人(真に善良な人)は、それが運転方法に表れるのは勿論、雰囲気にも表れると考えます。

つまり、このことは偽善を表現しているのではないかとも感じるのです。

運転方法は善良に行っているが、心の中は汚れているといった感じです。

例えば、相手に順番を譲ってあげたとしても、心の中では『割り込んできた』と考えて腹を立て舌打ちをしている、といった具合です。

彼の運転している雰囲気は、冷酷さがにじみ出ているというか、何とも表現しにくい異様な、そして嫌な雰囲気でした。

私が過去に遭遇した悪人の雰囲気と同等だと感じたのですが、あながち間違いではなかったのです。

ある意味、私はショックでした。

そして、ここからが彼の悪人ぶりの本番です。

彼は、退職手続きを行う最終日に、神様を批判、かつ、冒涜し、私を批判しました。

おそらく彼は、私を批判した認識は持っていても、神様を批判した認識は持っていないと思われます。

信仰を持っていない人間には、できない考え方だからです。

彼は私に、退職を決意した背景に「出費がかさむ様になり、生活が苦しくなった」と話しました。

つまり彼は私に対して、「退職を決断した要因は、給料を安くしているあなたにあります。」と言っているのです。

とどのつまりは、私を批判した発言になりますが、この発言がどうして私を批判していることになるのかについては後述します。

そして、次の言葉が私には許せない言葉になりました。

「タバコもやめて、ギャンブルもやめたのに、生活が苦しくなった。」と。

このセリフは、普通の人が聞いても何とも感じないでしょう。

しかしながら私は、このセリフは、神様への冒涜であり、批判であると捉えています。

どういうことかと言いますと、タバコもギャンブルも神様の世界においては罪です。

タバコもギャンブルも、神様が禁止している行為です。

彼のセリフは、次のように言っているのです。

「神様の言う通りに従ったら、生活が苦しくなった。」と。

はっきり言わせていただきますが、生活が苦しくなったのは、どこまでも本人に原因があります。

本人の行動や心の中の有り様が原因だということです。

心根が悪で腐りきっているので、人間は騙せても神様は騙せないということです。

神様は、彼の中に潜む闇(極悪性根)をはじめから分かっていらっしゃたのです。

従いまして、彼の生活が苦しくなるように、まず私に彼の給与を減給するように促され、そして、出費が嵩む様に促され、そして、退職を決意せざるを得ないように誘導されたのです。

完全に神様の手の中で操られました、つまりは、神様から裁かれているのです。

ちなみに、RAPTさんの朝の祈り会での見出しの御言葉を紹介させていただきます。

2023年8月4日(金)                                            神様が人類に愛を示してばかりいたら、人類がつけあがるだけだから、神様は御言葉の基準で生きない人は全て厳しく裁き、ご自身の恐ろしさを徹底的に示していくと仰った。(イルミナティに対しては第二のバビロン捕囚が始まり、御言葉に従わない者には恐怖の時代が始まる。)

2023年8月6日(日)                                           神様は人間の営みに限界線を設けている。人間が何でも自由にできるように見えても、ある一定のラインを超えると、神様はばっさりと裁かれる。人間はあくまで神様の手のひらの上で踊っているに過ぎない。

このように、彼に対する裁きの御言葉かと思うほど、タイムリーな御言葉が宣布されました。

私を批判したければ大いに批判すればいいのですが、神様の批判だけは許すわけにはいきません。

そして、ここから私に対する彼の批判についての説明です。

ちなみに、彼の言い分である「給料が安い(下げられた)から退職を決意した」という主張に対して、誤解があってはいけませんので、経緯を説明したいと思います。

どちらが正しいかおかしいか、皆さんがその是非を考えていただければと思います。

彼には2021年の12月から役付手当として一万円支給していました。

これは言ってみれば私の温情でした。

彼は何の役職にも付いていませんでした。

私は今年の4月から、その一万円の支給を取り上げました。(約1年半近く支給していたということです。)

彼はそのことを言及してきたのですが、つまりは、そのことを不満に思っていたということです。

「役付手当もなくなり、給料が減ったせいで生活が苦しくなった。」とはっきり言いました。

感謝の気持ちが微塵も無いセリフです。

一年前、退職させた従業員と全く同じような発言を彼は行いました。

私が役付手当を取り上げたのは、彼がその手当に胡坐をかき、会社に対して何の成果も出していなかったためです。

はっきり言わせていただきますが、私は彼に、支給する必要のない手当を支給していたのです。

今年の4月は、それを外しただけで、日給そのものを減給したわけではありません。

それでも私が悪いなら、どこが悪いのか、皆さんに教えていただきたいです。

私に悪があるとすれば、えこひいきをしていた点になるでしょう。

彼に対するえこひいきという悪を改善した、それが、役付手当の没収だった、ということです。

私の主張としましては、彼に対して、どこまで人間性が腐っているのかと言わざるを得ません。

しかも、今の生活苦は、私のせいだと言わんばかりでした。

彼の目がそう訴えていました。

完全に悪人の目になっていました。

彼の支出が増えたのは、私のせいなのかと言いたいです。

彼は身内愛(私に言わせれば、愛でも何でもありません。)が異常に強く、身内に対する執着も異常と言っていい位強いものがあり、身内のことで仕事さえ休もうとしたこともしばしばです。

ちなみに、神様の世界で言う「愛」とは、周囲に恵みを与えても、周囲に害を与えることは絶対にありません。

彼の身内愛は、申し訳ないですが、少なくとも我社にとっては害となっていたことさえありましたし、そもそも身内愛が原因で、自分の首を絞めているケース(出費が嵩む要因も含めて)も少なくないと思います。

つまり、サタン的な愛だということです。

例えば、実際に世の中で言う男女の愛は、多くの場合で周囲に害を与えます。

いちいち具体的事例を挙げてまで説明するまでも無いでしょう。

つまり、世の中で言う男女の愛は、サタン的な愛だということです。

詳細は割愛しますが、彼にはそのように迷惑が掛かっていた、という認識は皆無でしょう。

どこまでも自分に原因があってお金が必要になる事案が発生しているはずなのに、あたかも給料を下げられたことが原因だと言わんばかりの彼の論調は、まさしくサタンの仕業と言わざるを得ません。

しかも、先月末に相談してきた時には、彼からその話は一切出ませんでした。

言わなかったのか言えなかったのかは分かりませんが、彼の言うことに真理を見出せず、嘘の塊にしか見えなくなり、二度と彼と関わりたくないくらい、嫌悪感でいっぱいになりました。

まあ、いずれにせよ、生活苦があって私にそれを隠して退職を決断したのであれば、お金に目がくらんだということですから、このような人間は神様にほど遠いのです。

聖書にもこう書かれてあります。

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイによる福音書 6章24節)

ちなみに、彼の退職理由ですが、義理の弟の会社が人手不足で強く懇願されたため、とも言っていましたが、これも自分勝手極まりないと言わざるを得ません。

これもまた、身内愛の弊害と言えるでしょう。

我社も従業員5人の人手不足の会社です。

我社の人手不足を顧みることなく、義理の弟の会社の人手不足を重視したのです。

異常な身内愛がもたらした結末と言えるでしょうし、推測ですが、高収入も約束されたのでしょう。

彼はどこまでも卑しい人間で、心根が悪の、最低な人間で、人間の屑といえるでしょう。

でも彼からしてみれば、私の方こそ人間の屑なのかもしれませんね。(笑)

やはり、神様が彼の本性をあらわにして下さり、私から彼を遠ざけて下さいました。

彼は天使を装った人間サタンとでした。

聖書にもあります。

サタンでさえ光の天使を装うのです。(コリントの信徒への第二の手紙 11章14節)

彼に比べれば、彼に嫌がらせをしてきた過去の悪人の方が、まだ善人と言えるでしょう。

聖書にもこうあります。

旧約聖書の聖句ですが、エルサレムの背信を神様が嘆かれた場面ですが、                           また、サマリアは、お前の過ちの半分も過ちを犯さなかった。お前は彼女たちよりも多くの忌まわしいことを行った。お前が行ったすべての忌まわしいことに比べれば、お前の姉妹は正しい者のようにさえ見えた。(エゼキエル書 16章51節)

このように、「悪人の悪さえも正しい」と例えるほど、当事者の働いている悪を最上級だと表現していらっしゃるのです。

私が考える「真に憎むべき悪人」とは、誰が見ても悪人と分かる悪人ではなく、誰が見ても善人にしか見えない悪人です。

誰が見ても悪人と分かれば、誰でも警戒心を持って接することができるでしょうし、そもそも関係を持とうともしないで済むでしょう。

しかし、善人にしか見えない悪人に対しては、警戒心どころか、逆に気を許してしまい、簡単に騙されてしまうことでしょう。

大変危険なことなのです。

彼は確実に後者の部類だったということです。

ちなみに、彼は今年(2023年)に入ってからというもの、定期的にトラブルや嫌なことに巻き込まれていました。

今年から、神様の千年王国、地上天国が成される元年なのに、どうしてだろうと不思議でなりませんでしたし、つい最近まで、神様が彼に信仰を持つように促されているのではないか、と考えていましたが、よくよく考えてみると逆だと悟りました。

神様は、信仰者に対しては、間違いに気付いてほしくて、裁きを継続的に行うということはありますが、信仰を持っていない人に対しては、祝福(奇跡的と思える良いこと)を必ず与えられます。

そうしないと、神様の存在を信じてもらえず、信仰を持ってもらえないからです。

たとえ信仰者と言えども、嫌なことばかりが起きていたら、それこそ神様の愛を疑って、信仰が破壊され兼ねません。

神様は、その匙(さじ)加減も十分に理解されている方です。

従いまして、もしも神様が彼に信仰を持ってほしいと思っていらっしゃれば、彼にもっと祝福をお与えになったはずですから、私は彼に良いことがあったかどうか尋ねてみたところ、うーんと考えていましたから、「もういいよ。」と答えました。

つまり、考えないと良い出来事が浮かばないということは、良い出来事が起きていないという証拠です。

奇跡的な良い出来事を経験していたら、考えるまでもなく、即答できるはずです。

つまり、どう考えても、彼は裁かれているとしか思えません。

しかも、現在進行形で裁かれています。

つまり、そういうこと(救われない部類の人間として弾かれた)です。

つまり、神様が彼をサタンに明け渡した、ということです。

今回の一件で、私は神様から啓示を頂いたような気がしました。

それにより、私の憤りも治まりました。

内容は公開できませんが、彼が筋を通して退職していれば、何の問題もありませんでした。

私に、退職日も含めて、全ての判断を委ねれば良かったのです。

しかし彼は、もしも私に委ねれば直ちに辞められない、と私の意向を勝手に判断したために、自分で何もかも決めたということでしょう。

私は、彼が退職の意向を示してきた日に、神様に彼をどうすべきか、お祈りの中で伺いました。

すると、はっきりと言われました。

彼を捨てなさい、今回のように計らったのは私だ、と。

従いまして、彼が私に判断を委ねたとしても、すぐに退職させていました。

神様から指示があれば、私には何の未練もありません。

私にとって、神様の御心は絶対です。

神様の仰せの通りに行えば、必ず上手くいくと信じていますので、人間的に考えると、実行できないことも実行できるのです。

これが信仰です。

本当は、多くの人が救われてほしいと神様は願っていらっしゃいます。

私も、神様のお役に立ちたいと願って止みません。

1人でも多くの悪人が滅び、善良な人間(心のきれいな人間)が増えて、栄えることを心から願います。

私は最後に彼に、「お前は人道に反したことをした。」と言いました。

彼は最後、申し訳なさそうに会社を後にしましたが、私を見るその目は、完全に私を敵視した目になっていました。

彼は最後の最後で、その悪なる本性をむき出しにして、それが聖書の聖句通り、隠されているもので、あらわにならないことは無い、ということを証明してくれた出来事でした。

改めまして、神様に感謝です。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました