早速、かつ、唐突ですが、実は現在の我社は、経営危機に晒されています。
我社は倒産寸前と言っても過言では無い状態にあるのです。
現金が底を付きそうな感じで、ギリギリのところで踏みとどまっている状態であり、いつ倒産してもおかしくない状態にあります。
私自身、決して不正を行っているつもりは無いのですが、それは人間的な悪を行っていないだけで、神様から見れば悪があるかもしれず、そのせいで会社の現金が減り続けている可能性も否定できません。
我社は4人の働き手しかいませんが、人材派遣業において、派遣する人材がいなければ、経営難に陥るのは当然と言えば当然のことです。
例えば肉を売る商売の人が、まずは肉を仕入れなければ話にならないことと同じです。
今回の記事で、私が何を言いたいのかといいますと、そのような状況下(経営危機)にあっても、私の心は平安を保っているのです。
不安、心配、絶望といった感情が襲ってこないのです。
普通、自分の経営する会社が経営危機に陥りそうになった時に、平常心を保っていられる経営者が果たしているでしょうか。
まず、いないでしょう。
それこそ、生きた心地さえしない毎日を過ごすことになるでしょう。
実際、2018年の会社設立時の私、並びに、2019年の閑散期に経営危機を迎えた私、それぞれのその時の気持ちは、まさに地獄のようでした。
2018年の会社設立時には、会社を作って2ヶ月で経営危機に陥りました。
たった150万円で会社を設立しましたから、当然と言えば当然の始末ではありましたが、当時の私は、不安心配に苛まれ、絶望感に苛まれ、会社を作ったことさえ後悔する日々を送っていました。
この時は、前の会社で働いていた時の取引先を頼ることで乗り切りましたが、人を頼ったせいで、2018年6月から3年間、結果的にその取引先の幹部から苦しめられることとなり、RAPTさんが仰せになった「お金で人を頼るとそれだけで奴隷状態と化す」という御言葉が現実になりましたが、その当時は神様は勿論、RAPTさんにも辿り着いてはいませんでした。
同じく、2019年7月の閑散期には、それまで3ヶ月もの間、仕事の受注がままならず、経費だけが出て行く形となり、現金が底を付きそうになり経営危機に陥りました。
この時も、強烈に不安、心配、絶望感に苛まれ、生きた心地がせず地獄のような日々を過ごし、部下にも当たり散らすほどでした。
どちらの時も、泣きたいくらい、現実から逃避したいくらいの心情でした。
それこそ、寝ても覚めても会社のこと、お金のことばかり考えて、相当に追い詰められていました。
ちなみに、私がRAPTさんに辿り着いたのは2020年4月、神様の存在を知ったのは2020年5月あたりで、正式に信仰を持ったのは2022年2月(明け方の祈りを開始した時)です。
それが現在は、その時の私とは正反対で、自分でも驚いているのですが、到底、経営危機を迎えている状態の人、及び心境ではありません。
実のところ、2018年と2019年の時以上に現金が少なくなっているのですが、何と、心は平安なのです。
それどころか、以前の記事でも書きましたが、会社のことでは希望が叶うこともあり、喜びがあふれることさえあります。
2018年と2019年の時には、喜びや希望があふれることは、当然ですが一ミリたりともありませんでした。
当時の私に、喜びや希望の話をする人がいたら、「てめえ、なめてんのか!!喜びや希望をくれるくらいなら金をくれ!!」とか言って、攻撃的になっていたかもしれません。(笑)
当時の私と何が違うのかと言えば、言うまでもなく、神様に辿り着いているかいないかの違いだけです。
神様に辿り着き、かつ、神様に繋がっているだけで、こんなにも違いがあるのです。
世の中の経営者は、経営危機に陥ると何をし出すかと言いますと、銀行や金持ちの知人、友人、身内などを頼って資金を調達、工面してもらったり(要するに借金です。)、暴力団を頼ったり、従業員の待遇を悪くしたり、決算書を改ざんしたりといった、人間を頼る行為や悪に手を染める行為を行うのです。
不安、心配、絶望といった感情により追い詰められて、精神異常者のような行動に出る経営者も少なくありません。
まさに、世の経営者はサタンに毒されている、サタンに操られている、と言えるでしょう。
もっとも、多くの経営者が、裏側では普段から悪事を行って、自分の利益や欲望を満たすための経営をしているので、経営危機を迎える羽目になるのでしょうが。
全てがその場しのぎの手段なので、その時は良くても、再び危機を迎えてしまったり、もっと悪い結果になってしまう、ということも少なくありません。
実を言いますと、現在の我社は、3ヶ月くらい前からすでに現金がギリギリの状態にあり、普通の神経では、まともに毎日を過ごすことができない状態にあると言えるでしょう。
しかし、私は違います。
もしも本当に立ち行かなくなった場合は、それは神様が「会社をやめなさい」と仰せになっているのだと考えて、潔く会社をたためばよいのです。
もしも我社が、今の私に必要な存在であれば、どんな状況を迎えても継続できるように導いて下さる、と考えています。
つまり、神様の御心次第と考えていますから、単純明快で、余計なことを考えなくて済むのです。
いずれにしても、神様に頼って委ねているからこそ、余計なことを考えずに済み、不安心配に襲われないのです。
これこそが、神様からの恵みと言わずして、何と言えばいいでしょうか。
本当に自分でも驚いています。
世の中的に考える(人間的に考える)と、会社をたたむ行為、並びに、会社を倒産させた行為は、従業員の生活の糧を奪ったり、取引先に迷惑を及ぼしたりしますから、経営者として失格だと評価されるでしょう。
しかしながら、神様が会社の倒産を指示した場合、果たして失格者と評価されるべきことでしょうか。
この考え方はどこまでもサタン的だと言えます。
なぜならば、人間を第一に考えた考え方だからです。
少し話が反れるかもしれませんが、聖書の内容を紹介させていただきます。
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書16章21節~23節)
「従業員の生活の糧を奪う」というのは確かにその通りでしょうが、警備会社は腐るほど(※言葉が悪くてすみません。)ありますから、従業員が働き口に困ることはなく、生活の糧が絶たれるわけではありません。
「取引先にも迷惑をかける」ことも確かにその通りでしょうが、ではその取引先が我社がなくなることで共倒れするのかと言えば、そんなことは絶対にありません。
従業員も取引先も、一時的に困ることはあっても、どこまでも一時的です。
申し訳ないですが、従業員にとっても取引先にとっても、我社の代わりなど世の中にはゴマンとあるからです。
受け取り方(印象)によっては、私が悲観的な考え方、後ろ向きな考え方をしているように映る人もいるでしょうが、私は人間の事よりも神様の事を優先しているに過ぎません。
私が後ろ向きに考えているように感じる人の方が圧倒的に多いでしょうが、それは人間的に考えるからそう感じるのであって、むしろ逆に私はどこまでも前向きなのですが、このことは信仰者でないと理解できない境地だと思います。
神様の指示に従うことこそ、前向きなのです。
従業員や取引先にとっては、我社の存在を願って止まないと思いますが、私が従業員の希望や取引先の要望を第一に考えることはありません。
あくまで神様が我社の存続を許諾なさるかどうかか第一で、許諾なさっている間は、同時に従業員や取引先の希望も叶えられている、ということです。
誤解をしてほしくないのは、私は何も、人のことを一切考えていないわけではありません。
聖書には以下のようにあります。 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイによる福音書22章37節~39節)
こうあるように、優先順位は神様が筆頭だということです。
そして神様は、人間のことも自分を愛するように愛しなさい、と説かれています。
「隣人」と表現されていますが、これは全ての人間を指しているわけではありません。
全ての人間であれば、それこそイルミナティ達のような悪人達も愛さなければなりませんが、現代ではそれは違うようです。
全ての兄弟姉妹(つまり信仰者のこと)、神様のことやRAPTさんのことを否定しない人々、信仰者の周囲にいる人々で神様が繋げて下さっている人々、神様のことやRAPTさんのことを知らない人でも善良に生きようと努めている人々、このような人々を「隣人」と表現しているものと思われます。※私の解釈が間違っていたらすみません。
従いまして、私にとっての「隣人」とは、現在において神様が私と繋げて下さっている人間関係だと考えます。
実際に、私にとって不要な人間関係や害と成り得る人間関係は、神様が排除できるように導いて下さいました。
その観点から考えますと、現在関わっている我社の従業員や取引先、身内などについては、神様が許諾されている人間関係だと言えます。
そのように神様が繋げて下さっている人間関係は、私も大切にしなければならないと考えています。
だからこそ、従業員には特に伝えているのですが、神様が私と引き裂くことが無いように用心するとともに、本当に我社を必要としているのなら、我社のために何を成すべきか考えて実行しなさい、と言っています。
信仰を持てないならば、せめて信仰を持っている私の役に立つことを考えなさい、ということです。
私のために、我社のために、何も成果を出していないのに、私や会社に何かしてもらいたいと考えること自体、高慢だということです。
世の中の企業で働く人間達は、自分が大して相手(会社や同僚など)に何もしてあげていないのに、相手に何かしてもらおうとばかり考え、さもそれが当然のように思い込んでいる、そのような人間ばかりです。
そして「俺はこれだけ頑張っている」と自分で自分を過大評価し、不平不満ばかり言うのです。
聖書にもこうあります。 自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇ででなく、異邦人にほめてもらえ。(箴言27章2節)
会社が従業員に給料を与えることを、さも当然と考えて、日々の生活の糧をいただいていることに感謝さえできないでいるのです。
これこそ、高慢と言わざるを得ません。
実際に私は、毎日神様に感謝して生きています。
今現在、特に何か恵みをもらっていなくても感謝することを絶対に忘れません。
なぜならば、これまでに神様からしていただいたことが数知れないからです。
過去の恩を忘れ、現在の境遇に不平不満ばかり並べる最低でクズな人間でいたくないのです。
そのために、過去に我社に在籍していた4人の従業員は、神様から私と引き裂かれることになりました。
私に対して反感、不平不満といったサタン的感情を、その4人は神様から入れられたと言っても過言では無いということです。
これは取引先の人達にも同じことが言えるのであって、実際に、取引を切った企業もあるのですが、同じように私に対してサタン的行動を取っていた人たちばかりです。
サタン的な感情を起こしやすい人やサタン的行動を取り易い人は、間違いなく私の害になるので、神様が遠ざけて下さるのですが、私にとって害になる点については、血縁関係の人間でも関係ありません。
実際に、私は実の父と育ての母、それらの身内を全て捨てました。
そして、長年疎遠だった実の母と繋がりましたが、それも母次第ではどうなるか分かりません。
神様と人間の関係も、人間が感謝の気持ちを絶えず持つことでその関係を維持できるのと同様に、人間同士も感謝の気持ちをお互いが絶えず持つことで良好な関係が構築できるのではないでしょうか。
私が切った人間達は、一方的に私に何かを求めていたように思えますから、私が神様と繋がった上は、切られる羽目になったということでしょう。
RAPTさんも、神様の世界はギブアンドテイクだ、と仰せになっていますが、これがまさに感謝を表現する言葉ではないでしょうか。
これらのことを、直近の御言葉でRAPTさんが伝えて下さっています。
RAPT朝の祈り会2024年2月1日(木) サタンからどんなに攻撃されて痛めつけられても、神様からどれほど愛されてきたかを絶えず思い起こして感謝し、神様に恩返しする者となりなさい。(サタンが私たちを攻撃してくるのは、私たちが幸福を感じて生きているのを見て嫉妬しているからだ。)
RAPT朝の祈り会2024年2月2日(金) 神様が私たちに求めているのは、感謝から来る愛だ。神様は感謝する人を見て最も喜ばれる。そして、その人に惜しみなく与え、その人をサタンから守り、艱難辛苦から助け出し、その人のすべての願いを叶えられる。
やはり、今年に入ってサタンの攻撃を感じていた私の感覚は正しかったということです。
ちなみに、我社の名称は「全心」ですが、聖書にも「全き心」という表現が所々出てきます。
旧約聖書の歴代誌上の中で、ダビデが、息子であり後継者に据えたソロモンに説教する際に、翻訳として使用されている表現です。
私は初めて聖書を読んだ時、「全き心」という表現に感動さえ覚えました。
「全き心」の意味は、調べてもおそらくでてきません。
その意味は、神様に対する真っすぐな心、神様に対する従順な心、神様に対する一点の曇りもない清い心、神様に対する純粋に愛する心、神様に対する感謝の心、そういった意味が込められているものと思います。
そして、我社の社名が「全心」、これが単なる偶然でしょうか。
私は自分の会社を作る時には、この名前にしようと思っていましたが、単純に安全の「全」と安心の「心」を取って命名しただけです。
しかも「ぜんしん」という響きが、「善心」や「前進」にも通じるので、この名称しかない、と考えた次第です。
このことでさえも、私は神様に感謝しているのです。
実にいい名前をいただいたと。
神様と出会うまでは、自分で考えついた名前だと思っていましたが、今はその名前を付けるように導いて下さったのが神様だと感謝しています。
感謝の気持ちを持つことが、心の平安にも繋がっているのだろうと感じます。
神様と繋がることができない人達を見ると、本当にもったいないことをしていると思えてなりません。
会社の倒産寸前という艱難辛苦にありながら、心が平安であるという、人間的に考えると矛盾で、有り得ないことのように感じるかもしれませんが、これが何よりの神様からのご褒美であり、奇跡であり、神様と繋がっていなければ味わうことのできない賜物なのです。
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