我社の5年目の成績が確定しました。

神様の証

今回の記事が、なぜ「神様の証」に分類されているのか、説明していきます。

結論から申し上げますと、我社の5年目の成績は、約100万円の黒字となりました。

黒字になったから神様のお陰だ、という単純な話ではありません。

実を言いますと、我社の4年目の成績は、約170万円の赤字でした。

今期は、昨期の状況から劇的な回復を遂げたわけですから、勿論、神様のお陰と言えます。

4年目と5年目の我社の状況を比較します。

【4年目】 従業員数7名 売上=約2,700万円 赤字額=約170万円

【5年目】 従業員数5名 売上=約2,600万円 黒字額=約100万円

我社は警備会社ですが、実態として警備業は人材派遣業と言えます。

法的には、警備業は人材派遣業ではない(請負)と規定されていますが、実態は明らかな派遣業です。

今回は、この話は置いておきます。

警備会社の売上は、従業員数と受注数が大きく影響します。

つまり、従業員の年間派遣人数が、業績に大きく影響するということです。

従業員数を多く抱えている警備会社が、より儲け易くなるという、単純な仕組みです。

我社は少数精鋭で行っていますが、4年目と5年目を比較していただけると分かる通り、必ずしも従業員数が多ければ、利益を生むとは限りません。

4年目が大幅な赤字となった原因を検証しますと、資金を提供してくれた企業に対して返金を行ったことが要因の一つに挙げられます。

設立当時、資金に行き詰まり、とある企業に100万円の資金援助をしてもらいました。

4年目にその企業の重役と私の関係が悪化したため、援助してもらった100万円を返却することで、その企業との取引を破棄しました。

その返却が大きく業績に影響したとも言えますが、それを差し引きましても、約70万円の赤字になっていたことになります。

では、4年目と5年目で何が大きく違ったかと言いますと、一言で言うなら、私の信仰が入ったかどうかでした。

4年目も実のところは、受注も順調でした。

正直なところ、まさか赤字になるとは想定していませんでした。

4年目の経営手段を振り返ってみますと、人間的な考えや行動で会社を経営していました。

人間的な考えや行動とは、一般的に行われる営業活動のことです。

仕事の受注を確保するため、取引先を訪問したり、取引相手と親密になるよう努めたり、取引相手に仕事を回してもらうよう依頼したりしながら、会社の運営を行います。

つまりは、どこまでも人を頼るというのが営業活動です。

しかしながら私は、5年目の経営手段として、人を頼ることを一切行わず、ひたすら神様に頼る、神様に委ねる会社経営を行いました。

5年目は、上記で言うところの営業活動らしい営業活動は一切行っていません。

ただ、信仰生活を行っていただけです。

ただし、神様が頼るべき人を差し向けて下さったと感じた場合に限り、その人を頼ることにしました。

勿論、日によっては現場に出向いたりしていましたが、仕事の受注のための行動を行ったことは一切ありませんでした。

神様に祈り求め、神様に依り頼み、神様に委ねただけです。

毎日神様に祈り、毎日聖書を読み、毎日RAPTさんが配信される御言葉を聞き、時々RAPT理論の話やキリスト教の話を従業員や身近な人に話をする日々を過ごしました。

人間的に見れば、全く仕事をしていない社長です。(笑)

ここで、5年目に起きた出来事の中で、業績に直結した神様からのお導きによる出来事をお話しさせていただきます。

①2022年の4月に、我社を共に立ち上げてきた相方を退職させました。

これは、私が決断したことではなく、神様から「退職させなさい」と言われたような気がしたので実行しました。

何があったかと言いますと、彼は私の言うこと(指導や説教)にほとんど耳を傾けませんでした。

その時は神妙に言うことを聞いてはいましたが、数分後には忘れている、といったことが日常茶飯事でした。

だから、どんなに説教しても変わり映えしませんでした。

RAPT理論についても、自分に都合の良いところは受け入れて、自分に都合の悪いことは受け入れませんでした。

自分を成長させようという向上心の欠片もなく、ただ自分のためだけに毎日を過ごしているというような人間でした。

自分さえ良ければいいという、典型的な悪人的考えで、私は彼のことを人間サタンと表現し、彼にも「お前は人間サタンだ。」と伝えたほどでした。

実を言いますと、会社設立当初から彼と接すると嫌な思いをすることが多く、私は彼のことが嫌いなんだろうとずっと思っていました。

しかし、信仰を持ったことによって、霊的に物事を見るという考え方を知ってからは、彼と接すると嫌な思いを感じることが多い理由が霊的な部分にあったと悟りました。

このことについては今回は割愛します。

そして私は、彼の処遇をどうすればよいか、神様に祈り求めました。

すると、2022年の3月に、彼が今の仕事をバイト的に変え、別の仕事をしたいと私に言ってきました。

週に半分ほど今の仕事、週に半分ほど新しい仕事をしたいと言ってきました。

実のところ彼の私生活は、クレジットカードで買い物をしてきたことによる、いわゆる借金苦に陥っていましたから、私は彼に「収入を得る方法を模索しなさい」と説教し続けてきました。

私からすると、今の仕事の合間でできるバイトを探すか、今の仕事でも休みなく仕事を行うか、そのどちらかしかないと考えていました。

しかし彼は自分に非常に甘く、「日曜日は休みたい」「楽して稼ぎたい」そういう気持ちを抱いていて、私にもそのように発言してきたほどでした。

だから彼が下した結論は、今の仕事と新しい仕事を半分ずつ、というものでした。

このような仕事の仕方で収入を増やせると考える彼の頭脳を私は理解できませんでした。

それで私は神様が以下のように仰せになられたのだと悟りました。

彼を退職させて、自分の好きな道へ行かせなさい、と。

私に彼を捨てるように促されました。

人材派遣の会社が人材を捨てるのです。

人間的に考えると、絶対にできません。

会社に籍だけ残して使える時に使う、と多くの経営者が考えると思います。

しかし私は違います。

神様が捨てるように促した場合は、それに従うことで事態がうまく運びます。

人間的に考えると、絶対にうまくいかないように思えても、実際は、うまくいく、ということです。

それで2022年の4月に彼を退職させました。

そして現在に至るまで、彼を退職させたことを悔やむような出来事は一切起きていません。

むしろ、彼を退職させて良かった、と思うことの方が数多く起きています

なんとも皮肉な話ですが、これが神様のお導きだと言えるのです。

②2022年の8月に、80歳を超える従業員を退職させました。

実のところ、詳細は割愛しますが、彼は2021年の4月から、ほとんど戦力になっていませんでした。

月に2、3回程度しか出勤せず、いないに等しい状態でしたが、彼本人から退職の意思表示も無く、彼を退職させる大義名分もなかったので、そのまま在籍させていました。

しかしながら、いつまでもこのような中途半端な状態は駄目だと考え、神様に彼の処遇をどうすべきか祈り求めていました。

すると、一発回答が与えられました。

彼を出勤させた日(8月10日でした。)に、無断遅刻を起こしたのです。

約30分の遅刻です。

現場の担当責任者から私に電話が入りました。

約束の時間になっても、現場に警備員が来ていない、と。

そして彼に電話をしましたが、取ってくれませんでした。

我社が始まって以来、連絡なき欠勤(その時点では欠勤と考えました。)は初の出来事でした。

私は現場に急行し、その途中で彼から連絡が入りました。

「今着きました。」と。

私は彼を電話で激しく叱り、現場に到着しても激しく叱り、そして、「帰れ」と言って帰宅させました。

そして即、退職の決断をしました。

これこそ、神様が彼の退職を促して下さったです。

もしも、事前に連絡があって遅刻した場合は、私は何とも思いませんでした。

彼は元々、時間を厳守し、約束の時間よりかなり早く来る従業員で、これまで一度も遅刻をしたことはありませんでした。

だから一度の遅刻は大した問題ではありません。

しかしながら、連絡なしに遅刻したことは、一時的な職務放棄に該当し、決して許されるべき行動ではありません。

現場の方々にも多大な迷惑と心配をお掛けして、最悪、相手の怒り次第では取引中止に成り兼ねない事案でした。

そうなると我社にも多大な損失となったわけで、結果的には大事に至りませんでしたが、この出来事は、神様が高齢になる彼を配慮されて、私に退職させることを決断させたのではないか、と感じています。

彼の退職が神様の目的であったので、トラブルになることは無かったのだと感じています。

ちなみに、彼が遅刻の電話連絡を怠ったのも、神様のお計らいによるものだと私は考えています。

30分も遅刻するのに、連絡を怠るというのは通常考えられません。

連絡できないように神様にされた、と思うしかありません。

信じられないかもしれませんが、神様は人間の目を塞いだり耳を塞いだり、お出来になります。

つまり、見えるはずのものを見えなくしたり、悟るべきことを悟れなくしたりできるということです。

③安定的な受注のある取引先を捨てました。

2022年の8月いっぱいで、その取引先の現場から撤退しました。

理由はいくつかあるのですが、最大の原因は、その現場の責任者のことが嫌いになった、ということです。

その責任者から何かをされたというわけではありませんでしたが、挨拶はしっかりしない、仕事はいい加減、必要な連絡や情報を教えてくれない、などといった具合に、付き合う上で支障になるようことばかりを行っているような人でした。

とりあえずは、その責任者が担当する現場は継続するようでしたから、私は神様にどうすべきか(取捨選択)を祈り求めていました。

すると、やはり神様から回答を頂きました。

その責任者が担当する現場の予定が、二転三転したのです。

当時、別の取引先からの依頼もあり、私はどちらを優先すべきか悩んでいました。

それは、安定(その責任者の現場)を取るか不安定(別の取引先の現場)を取るかの選択だったからです。

私は神様から「安定を捨てて不安定を取りなさい」と言われたような気がしました。

これも人間的に考えると、有り得ないと思うことですね。

人間は、どんなことに関しても、安定を選び安定を求める生き物だからです。

ちなみに、私に直接連絡をしてきて「私が頼りだ」と言ってくれたのが、不安定的取引先の方でした。

これが私の中で決め手となりました。

すると不思議なことに、順調に仕事の依頼が入り、結果的には安定的に受注の確保ができました。

以上の3案件が、5年目に起きた、業績を左右する大きな出来事でした。

従業員が減り、受注の安定案件も捨てて、普通に考えると経営が不安定になり、利益が生まれにくいと誰もが考えることでしょう。

しかし、神様の指示に従うことにより、その時点では不利益と感じたことが、結果的に利益になっていた、つまり、状況が良くなった、ということなのです。

その時に受けた神様の指示については、確信があったわけではありません。

おそらく神様からの指示だろう、と推測するしかできません。

神様が直接、私に声を掛けて下さるわけではないからです。

それでも、もしも私の感じた指示が間違っていたとしても、神様が必ず修正して下さると信じているので、感じたまま行動することができるのです。

このように、5年目は神様からのお導きによって、利益を生むことができたと言えるでしょう。

ちなみに、私が信仰を持っていなければ、従業員を退職させることができず、取引先の安定案件を捨てることも出来なかったでしょう。

いかに神様のお考えが人間の常識とかけ離れているかがご理解いただけると思います。

もっとも、神様の力があれば、なぜ我社は大きくならないのか、と思う方もいるでしょう。

このことにつきましては、必ずしも神様の力があれば、会社が大きくなるということはありません。

例えば、セコムやALSOKのような大手の警備会社が、果たして神様を信じているでしょうか。

むしろ、悪魔崇拝を行い、かつ、上級国民の血筋の人間が幹部を務めているので、大企業にまでのし上がっているに過ぎません。

つまり、血筋、人脈、お金といった、サタン的な力に過ぎません。

身近(庶民)でも、30人規模、50人規模、100人規模の警備会社を運営している人はごまんといます。

こういった人達が神様を信じているかというと、おそらくですが、それはないでしょう。

人間の力でその規模にしてきたに過ぎないと推測します。

つまりは、神様を信じていなくても、それなりの成功を掴んでいると言えます。

従いまして、我社がどんなに大きな企業となったとしても、それが神様の御業(みわざ)だという証としては平凡ですし、信じてもらえない可能性すら高いでしょう。

しかしながら逆に、従業員数がたった5、6人程度の警備会社を5年以上経営できる人が、どれほどいるでしょうか。

私は一人もいないと思っています。

普通に考えて、労働保険料や社会保険料などの莫大な経費がかかりますし、5人程度では経営が成り立たないと思うでしょう。

しかしながら、神様のお力をもってすれば、それが可能になります。

つまり、神様のお力とは、人間が到底なし得ないと思える不可能なことを可能にできる力、だと言えます。

勿論、神様のお力が我社程度のレベルの物ではなく、それこそ世界規模、地球規模、いや、それ以上です。

我社は警備業を経営していますが、これはどこまでも世の中的な仕事です。

だからこそ、神様の祝福も必要最低限に留まっているのです。

神様の仕事、天の仕事と言える仕事、つまり、伝道に直結する仕事、人々の救いに直結する仕事を行った時に、莫大な祝福が与えられるのです。

我社が繫栄しても、伝道や救いには直結しません。

むしろ、方向性や目的がすれてしまう恐れすらあります。

そういった意味で最低限の祝福にとどめて、道を踏み外すことの無いように導かれているのです。

だから私の収入も、生活を行う上で支障のない収入を与えられています。

必要以上の収入は与えられていません。

世の中の社長さん達と比較すれば、ものすごく低い給料だと思いますが、私は満足であり幸せです。

従いまして、今日まで我社が運営できているのも、神様のお力のお陰だと言えるのです。

神様の証たる所以です。

今回の記事が、神様の証に該当する理由をご理解いただけたと思います。

心から神様を褒め称えます。

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