本能寺の変の犯人は、明智光秀ではなくイエズス会である!?(その1)

歴史

RAPT理論によって、日本史の内容(事に至る経緯など)が大嘘であることが判明しています。

その中でも、私が興味を持っている分野の一つであります、本能寺の変の真相、いや推理に迫りたいと思います。

ここからはフィクション小説を読んでいるくらいの感覚で読んでいただけると幸いです。

まず、結論から申し上げますが、タイトルの通り、本能寺の変は、明智光秀による織田信長暗殺事件ではなく、イエズス会による信長暗殺事件であり、明智光秀は冤罪(えんざい)をかけられた(無実の罪を着せられた)、と私は推理します。

以下はRAPTさんのブログです。興味のある方は是非ご覧ください。

「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠

実のところ、織田信長がなぜのし上がれたかというと、イエズス会の支援があったからだそうです。

一体どの時期にイエズス会からの支援を受けたかは不透明ですが、織田信長が歴史の表舞台に出てきた頃と考えると、桶狭間の頃か、美濃攻略を成し遂げた時か、京都に上洛する時か、いずれにせよ、室町幕府第15代将軍の足利義昭と関係を持った頃には、既にイエズス会の支援を受けていたものと推理します。

しかし織田信長は、自身の勢力が拡大するにつれて、イエズス会を裏切ったものと考えられます。おそらく、1577年に毛利攻めを開始していますので、時系列で言うとその頃に、イエズス会を裏切ったものと思われます。

この毛利攻め以降、織田信長は四面楚歌と表現していいほどに、謀反(家臣の離反)なども含めて周囲が敵ばかりになっています。

少々余談ですが、確か1580年頃に、家臣のうちで林佐渡守(さどのかみ)と佐久間信盛を追放していますが、この二人の追放の理由も、はっきり言ってよく分かりません。(佐久間信盛には、石山本願寺攻めの怠慢を指摘して折檻状を突き付けているようですが。)

一つの可能性として、この二人(林と佐久間)が密かにイエズス会と通じていた、と考えられなくもありません。まあ、全く関係ないかもしれませんが。

いずれにしましても、イエズス会が裏切り者の織田信長を殺そうと計画し、実行した出来事が、本能寺の変だった、と推理します。

まず、織田信長と明智光秀の関係について考えたいと思います。

通説では、1582年の甲州征伐(本能寺の変の数ヶ月前)で武田氏を滅亡させた頃から、両者の関係は極めて悪化します。

織田信長が明智光秀に対して暴力を振るったり、領地を取り上げたりしています。

私は昔から思っていたのですが、通説のままで考えると、本能寺の変ありきで過程が作られているとしか思えませんでした。つまり、結果から過程が生じた、というシナリオです。

逆です。過程から結果が生じるのです。(こんなこといちいち言われなくても誰でも分かります。)

特にNHKの大河ドラマを見ていると、どのドラマも、本能寺の変が起きない方がおかしい、という流れで描かれています。

もっと言えば、明智光秀の心理を読めない愚かな織田信長、にしか見えません。

では通説のように、果たして織田信長と明智光秀の関係は悪かったのでしょうか。いいえ、私は極めて良好だったと考えます。もっと言えば、明智光秀は織田信長の側近中の側近、今風に言えばブレーンだった、と言っていいと推理します。

ちなみに本能寺の変の当時は、羽柴秀吉は中国地方に、柴田勝家及び前田利家は北陸地方に、滝川一益は関東地方に、といった具合に、家臣の多くは遠征中にもかかわらず、明智光秀は織田信長の近くにいました。

本当に関係が悪かったと仮定して、果たして近くに置くのでしょうか。皆さんはこの点をどう感じるでしょうか。

ドラマの多くが、織田信長と羽柴秀吉の関係が大変良好のように描かれています(太閤記が最たる例です。)が、それならば明智光秀を毛利攻めに、羽柴秀吉を近くに置けば良かったでしょうに。能力の差においても、ドラマの描かれ方では、二人(光秀と秀吉)に大きな差があったとは思えません。

私は好き嫌い人事をすべきでないと考えますが、やはり、嫌いな人より好きな人を、無能な人より有能な人を自分の近くに置きたい、というのが人間の心理だと思いませんか。一番いいのは有能で自分が好きな人でしょう。

私は、明智光秀は織田信長にとって、好きな人物で、かつ、有能な人物だった、と推理します。

ちなみに、織田信長にとっての羽柴秀吉は、そこまで価値のある家臣ではなかった、と推理します。(実際に、朝倉義景と浅井長政に挟み撃ちに合った金ヶ崎の合戦において、織田信長は羽柴秀吉に殿(しんがり)を命じています。殿は死を覚悟しなければならない役目です。この時、明智光秀は織田信長と共に逃げています。つまり、羽柴秀吉は織田信長にとって、死んでも構わない家臣の一人だった、とも考えられます。)

また、織田信長と徳川家康の関係性にも注目しなければなりません。

この両者は、桶狭間の戦いの後、同盟を結んでいますが、それこそ本能寺の変の時まで、この同盟が崩れることはありませんでした。この二人の同盟は、戦国時代において珍しい関係性だったと言えると思います。

その根拠の一つとして、この両者は多くの戦争において連合軍として戦っています。

例えば、朝倉義景を攻めた金ヶ崎の合戦、朝倉義景と浅井長政の連合軍と戦った姉川の合戦、武田信玄に攻められた三方ヶ原の戦い、武田勝頼を鉄砲により撃破した長篠の戦い、武田氏を滅亡させた甲州征伐、などです。

本能寺の変の当時も、連合軍として戦う予定だったと推理します。

当時の時代背景から考えて、余程の信頼関係が無いと、こうも多くの戦いを連合軍として戦えないと思うのです。いつ裏切られるかも分からない相手や、敵と通じているかも分からない相手と、こうも度々連合できるでしょうか。

つまり、織田信長と徳川家康の関係も、極めて良好だった、と考えます。

明智憲三郎氏の著書である「本能寺の変427年目の真実」を読みましたが、この中で著者は、織田信長による徳川家康殺し、を主張していますが、私は出鱈目と考えています。

織田信長が安土に徳川家康を呼んだのは、徳川家康を殺すことが目的だった、と言うのです。

出鱈目と考える理由の一つとして、本能寺の変の数年後に起きた、小牧長久手の戦いで、徳川家康は自軍の総大将として、織田信長の次男である織田信雄を据えている、という点です。

織田信長の嫡男である織田信忠は、織田信長と共に本能寺の変で死んでいますので、順序からして織田信雄は織田家の跡目を相続する一番手と言ってもいい人物です。(羽柴秀吉が、織田信忠の嫡男である三法師を擁立しましたが、まだ幼子でしたから、織田家の跡目を継いでも後見役が必要だったということです。)

果たして、自分を殺そうとした相手の息子を、自軍の総大将に据えるでしょうか。普通に考えて、総大将どころか殺したくなるほど憎い相手だと思います。

この小牧長久手の戦いは、それこそ織田信長の敵討ち的要素が強かった(つまり弔い合戦)だったのではないかとさえ私は推理します。そう考えた方が、徳川家康が織田信雄を大将に据えた理由が説明できると考えます。つまりは、羽柴秀吉も本能寺の変に絡んでいた、ということです。

織田信長、徳川家康、明智光秀の三者は、極めて良好な関係かつ特別な関係だったかもしれません。この関係性が明確に分かった時に、明智光秀の本当の前半生が分かるでしょうし、明智光秀=南光坊天海の説が正しいかどうかも分かる(私は正しいと思っています。)でしょうし、色々なことが見えてくるかもしれません。

明智憲三郎氏は、この三者の本当の関係を見えなくする攪乱者かもしれません。

話を1582年当時に戻します。

本能寺の変の直前に、通説では、「織田信長は、武田滅亡の戦勝をねぎらうと称して、徳川家康を安土城に呼んで接待し、その接待役に明智光秀を指名した。そして羽柴秀吉から毛利攻めの援軍要請があり、明智光秀を接待役から外し、さらには領地も取り上げた。」となっています。

これも私は腑に落ちません。

織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍要請があったため、もしくは、四国の長宗我部氏討伐のために軍議を催すため、徳川家康を安土城に呼び、明智光秀も同席した、が正しいのではないか、と推理します。

だいたい、いつ殺されるかも分からない戦国時代に、味方と言えど織田信長の安土城に、徳川家康がのこのこと、数人の重臣だけで訪れることが有り得るでしょうか。通説通りだと、徳川家康は近所のおじさんの家に遊びに行くような現代の感覚で過ごしていた、となります。馬鹿としか言いようがありません。

しかも、徳川家康は駿河(現在の静岡県)から安土(現在の滋賀県)まで移動しているのです。現代でも相当な距離でしょう。物見遊山で出かけられる距離ではありません。途中で襲われる可能性すらある物騒な時代であったはずです。軍勢を従えて安土城に入城した、と考える方が、時代背景を考えても自然です。

従って、接待の最中に明智光秀が織田信長に叱責されて接待役を外され、さらには領地まで取り上げられた、という話は、完全に作り話でしょう。そもそも接待自体が嘘でしょう。接待という感覚が当時にあったかどうか分かりませんが、真相を隠すための後世の創作としか思えません。

話を進めますが、織田信長は本能寺へ入るのですが、これも通説では、「数十人、又は百人位の供回り衆で本能寺に宿泊し、茶会を催した。」となっています。

なぜか唐突に茶会が行われるのです。これもなぜ茶会を行うことになったのか、実のところ詳細が不明です。茶会のために本能寺に宿泊を決めたのでしょうが、その経緯をきちんと説明してくれないと困ります。

私は、本能寺で茶会を催すよう織田信長を誘った人物がいて、それが千宗易(後の千利休)だった、と考えます。実は千宗易はイエズス会のスパイだった、という話があります。

千利休はイエズス会のスパイ

実のところ、千宗易がイエズス会のスパイだったと仮定すると、この時代に起きた様々なこと(特に豊臣秀吉時代)が見えてきます(腑に落ちるという意味です。)が、ここでは触れません。

私の推理では、安土城に千宗易、もしくは、千宗易の代理人(こちらの可能性が高いかもしれません。)が織田信長を訪れて、本能寺で茶会を開く旨を伝えたものと考えます。では、なぜ千宗易の代理人が安土城を訪れるのか、となるのですが、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍要請の使者(別の言い方をすれば刺客)として遣わされたのが千宗易の代理人だった、と考えればいかがでしょうか。

私は、羽柴秀吉もイエズス会と通じていたと考えますし、そもそも織田信長が毛利攻めを決断したのも、イエズス会を敵としたからでしょう。なぜなら毛利氏こそ、イエズス会と繋がっていたからです。

おそらく織田信長も、千宗易のことは茶人(堺の商人)と信じ込まされていたでしょうし、そもそも織田信長は茶器に熱心で、茶器によっては領地以上の価値を感じていたほどだったと伝えられています。従って、名器を餌に織田信長を誘惑することは簡単だったかもしれません。

従って、織田信長は、本能寺を全軍の集合場所にして、嫡男である織田信忠の軍勢を本能寺の近くの妙覚寺に置き、徳川家康の軍勢を堺周辺に置き、万全の態勢で本能寺の周辺を固めたものと推理します。こう考えれば、織田信長が少人数で本能寺に入ったことも頷けるのではないでしょうか。

更に、茶会が行われたのが6月1日でしたので、明智光秀の軍勢は、6月2日に本能寺で合流予定だったと推理します。

だから、明智光秀の軍勢を本能寺に呼んだのは織田信長自身だった、という説があるのです。

ちなみに、明智光秀は5月末に愛宕神社に参詣していますが、戦勝祈願くらいはすると思います。そこで謀反の歌を詠むための歌会を開いた、となっていますが、完全に作り話でしょう。そもそもこれから戦争に向かうのに、歌会など開く余裕があるのでしょうか。う~ん、あるのかもしれませんね。

しかも、その時に堂々と歌を詠んでいるのですが、その時の歌が「時は今 雨がしたしる 五月かな」ですが、その歌を聞いた人達が、明智光秀の謀反の気持ちに気付いた、みたいになっていますが、これもまた本能寺襲撃が、成功ありきで語られている気がしてなりません。

襲撃に失敗する可能性もあるのです。実際に織田信長の嫡男の織田信忠は、通説においても軍勢を伴って本能寺の近くで待機していたわけです。もっと言うと、歌を聞いた人の中に、織田信長と通じている人がいたらどうするんだ、と思うのです。そうでなくても、下手をしたら明智光秀の謀反の意思が内外に明らかになる危険性もあるのです。(それくらい人間の口は軽いですし、重大事を知った人ほど周囲にしゃべりたくなるものです。あなたもそうではありませんか?)

このような重大案件にもかかわらず、事前にばらす様な行動を、当時の人が行うでしょうか。いや、今でもしないでしょう。特に暗殺ともなれば、密かに実行しなければ成功できません。事前に発覚すれば、相手に逃げられたり、返り討ちに合ったりしますから。

多くの専門家が、雨がしたしる=天下を治める、という解釈をしていますが、襲撃する前から織田信長を殺せる確信を持っていたかのような雰囲気です。その時の状況が変わって、本能寺に織田信長が不在だったらどうするんだ、と思うのです。

失敗したら、天下を治めるどころか滅亡です。だから何もかもが、本能寺で織田信長が死んだ、という事実(結果)から過程を考えた、としか思えない成り行きなのです。

つまり、明智光秀の謀反としてシナリオを考えた、というのが通説だと推理します。だから、明智光秀の謀反の動機説がたくさん存在しているのです。

ちなみに、暗殺の方法で一番成功しやすい方法は毒殺です。襲撃は打ち損じる可能性も、逃げられる可能性もあります。特に当時は、逃げ道として抜け穴のようなものが、城にも寺にも作られていたのではないかと推測します。

そうです。本能寺の変は、茶会の最中に起きた、織田信長織田信忠親子毒殺事件、と推理します。これなら、誰かが確実に織田信長の死を間近で見ています。もっと言えば、千宗易(又は代理人)こそ実行者だったかもしれません。歴史ファンには残念ですが、ドラマのようなチャンバラ劇は無かったと、私は推理します。

次回、本能寺の変の実態、羽柴秀吉の中国大返しのカラクリ、明智光秀VS羽柴秀吉の山崎の合戦の実態、徳川家康の伊賀越えの実態、明智光秀=天海説を推理したいと思います。

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