前回の記事では、源義経が青年期まで、鞍馬寺で修行を行っていたことについて書きましたが、今回は奥州藤原氏との関係性、並びに、兄である源頼朝への加勢理由について考えてみたいと思います。
通説では、鞍馬寺で僧になるために修行を行っていた遮那王(源義経)は、僧になるのを拒んで、助けを求めたのが奥州藤原氏の3代目当主藤原秀衡である、と言われています。
前回の記事を読まれた方はお分かりと思いますが、源義経が鞍馬寺に預けられた話は事実ですが、僧になるための目的ではありませんでした。
秦氏の傀儡とするために、鞍馬寺で修行をさせたのです。
しかも、「鞍馬天狗」という謎の人間に修行をさせているのです。
「鞍馬天狗」というのは、当然ながら人間のことを「天狗」と例えて表現しているだけであって、天狗のように鼻の高い人間、ということでしょう。
つまり、ロスチャイルドの流れをくむ外国人のことを「鞍馬天狗」と表現されていたということです。
源義経を秦氏の傀儡とするのが目的であったので、源義経が僧となるのが嫌で奥州に助けを求めた、という話は大嘘ということになります。
つまりは、嘘を付いているここにこそ、一つの核心部分があるということになります。
嘘の話を作り上げるということは、嘘の部分に知られたくない事実があるために、それを隠す必要があるということです。
私が考える、源義経が奥州藤原氏の元へ行った理由は、平清盛(秦氏)による日本侵略とアジア大陸進出のため、と推理します。
ここで、奥州藤原氏について少々触れておきたいと思います。
奥州藤原氏は、摂関家藤原氏と区別するために使われている表現ですが、元を辿りますと奥州藤原氏も摂関家藤原氏の流れをくむ一族なのです。
藤原北家が出所のようです。
奥州藤原氏初代と言われている藤原清衡ですが、実は彼の父である藤原経清が、平安京から奥州の地に来たことによって、奥州藤原氏が誕生することになるのです。
参考までに、藤原経清の父である藤原頼遠のウィキペディアに、藤原北家が出所のように書かれています。
つまり、奥州藤原氏=摂関家藤原氏ということになります。
藤原経清が、当時の陸奥守(むつのかみ)である藤原登任(ふじわらのなりとう)の家来として、朝廷から奥州に派遣されています。
この藤原経清が、蝦夷(えみし)と言われていた出雲族の安倍氏と婚姻関係を結んだことによって、奥州に住み着くことになるのです。
藤原氏の祖は中臣鎌足ですから、元々は藤原氏は秦氏ということになるのでしょう。
しかしながら、前九年合戦の時期に安倍氏と繋がったことによって、藤原氏に出雲族の血も入ったということになります。
前九年合戦も後三年合戦も、共に蝦夷討伐でしたが、奥州の地を藤原氏の支配とするための戦争だった可能性も大いに有り得ます。
実際に、奥州の地にいた安倍氏と清原氏を滅ぼして、藤原氏の治める地としたのです。
東北に平安京の朝廷とは別の朝廷が出来たようなものなのかもしれません。
話を元に戻します。
平清盛は、出雲族が作った平安京を廃して、福原(現在の兵庫県神戸市)という地に遷都しました。※結果的に福原遷都は失敗しています。
源義経=チンギス・ハンということを前提として、この時代に起きたことを考えなければならないと思うのです。
実際に平清盛も日宋貿易を行って、当時の中国と密接に関わっていますし、実は奥州藤原氏も北方貿易と称して、アジア方面とは密接に関わっています。
平清盛は西の方からアジア大陸へ、源義経は北の方からアジア大陸へ、という構想だったと推理しますと、源義経が奥州藤原氏の元に行ったのも、むしろ当然と言えるわけです。
何度も書いています通り、平清盛が登場して平家が出雲族から秦氏に変わりました。
平清盛が平家をロスチャイルド家にしてしまった可能性。または「密教」と「日の丸」に隠された意味。
これが源平合戦の始まりでしょう。
保元の乱と平治の乱は、平清盛が平家を秦氏に変えたことによって起きた戦争だと考えられます。
奥州藤原氏も、元々は秦氏の流れを汲んでいましたので、平清盛の野望に手を貸したということでしょう。
実際に、奥州藤原氏の3代目当主である藤原秀衡は平清盛の推薦で鎮守府将軍に任じられていますが、これこそが両者が手を組んだ証拠だと言えるでしょう。
そしてその後に、平清盛は藤原秀衡の元へ源義経を送り込んでいるのです。
日本を秦氏の国に変えてアジア大陸侵略の足掛かりを作ろうとした、と私は考えます。
では、なぜ平清盛はアジア大陸侵略を目指したのか、と言えば、秦国(現在の中国)の再建が目的だと考えてもおかしくはありません。
以下の記事をご覧ください。 「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身御供(ひとみごくう)を行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。
つまり、秦氏の「秦」は、秦の始皇帝が出所だと言えます。
だから、平清盛がアジア大陸方面への征服を企む動機は十分であり、あながちとんでも理論ではないとご理解いただけるのではないでしょうか。
平清盛(秦氏)の陰謀を知った出雲族の連中が黙っているわけがなく、源頼朝が起つことになるのです。
しかも源頼朝は以仁王(もちひとおう=後白河天皇の第三皇子)から頼まれて挙兵したとのことです。
後白河天皇は出雲族の天皇なので、その子である以仁王も出雲族の人物ということになります。
出雲族の天皇が、秦氏である平清盛を倒すために源頼朝を挙兵させたわけです。
単なる源平合戦というわけではなく、どこまでも出雲族VS秦氏の構図だと理解できます。
そして、源頼朝の挙兵に呼応して源義経が動き出します。
どのドラマを見ても、源義経が、兄である源頼朝の挙兵に呼応して、居ても立っても居られずに応援に出向くシーンが描かれていますが、これも完全なるフィクションでしょう。
源義経の目的は、源頼朝の監視役、つまり秦氏側のスパイとして派遣された、だからこそ、わずかな供回りで参陣したのです。
このことは、後に源頼朝と源義経が仲違いする原因となるのですが、次の記事で書きたいと思います。
源義経を源頼朝の元に派遣する際に藤原秀衡は、自分の家臣である佐藤継信、佐藤忠信の兄弟を、源義経の家臣として同行させていますが、実のところ源義経の警護役として同行させたのでしょう。
現代風で言えばSPです。
どう考えても源頼朝の応援とは思えません。
藤原秀衡が平清盛と繋がっていれば、源義経に軍勢を与えなかったことは道理だと言えるわけです。
源義経にとっても、源頼朝は血を分けた愛おしい兄ではなく、始めから敵なのです。
ドラマでも、源義経の加勢に関して、源頼朝が藤原秀衡に不信感を募らせる様子が描かれていたりしますが、これは事実だと言えます。
源義経は、源頼朝を欺くために、兄との対面を喜ぶ演技をした可能性は大いに有り得ますが、決して兄を助けるための参陣では無かったということです。
源頼朝の挙兵は、最初は大失敗に終わりますが、関東の出雲族が続々と源頼朝の元に集まって来るようになり、着実に勢力を増しつつあったのです。
ちなみに、話が少し反れますが、源頼朝を助けたのは平清盛本人と言われていますが、これも私は怪しい(嘘)と考えています。
この助命の経緯を覆すほどの資料が出てきませんので何とも言えませんが、その後、罪人扱いで伊豆(現在の静岡県)に流されたはずなのに、源頼朝のウィキペディアを読みますと、伊豆での流人生活の記録がほとんど無いそうです。
いくら何でもおかしいでしょう。
要するに、流人生活を送っていなかったということでしょう。
つまり、流人として関東で北条氏の監視下にあったわけでは無く、れっきとした出雲族の棟梁として迎えられていたのではないかと私は考えます。
だから、平清盛が源頼朝を助けたという話が嘘ではないかと勘繰りました。
いずれにしましても、源頼朝についても、かなりの嘘が散りばめられていると感じますので、いずれ記事に出来たらと思います。
話を元に戻します。
源頼朝の登場によって、日本国内で出雲族との争いが激しくなろうとしていた矢先、秦氏側、つまり平家や源義経を揺るがす一大事が起こります。
平清盛の死です。
ここから、平家(秦氏)の運命が大きく変わっていくことになります。
次回は、平清盛の死後に激化した源平合戦の真実を推理してみたいと思います。
ちなみに、源義経には武蔵坊弁慶という、剣術に秀でたものすごい武将(僧)が側近として仕えていましたが、私は後世の創作ではないかと考えています。
つまり、武蔵坊弁慶は実在はするものの、ドラマのように源義経の側近として大活躍したような人物ではなく、あくまで源義経とチンギス・ハンが同一人物であることを否定するために、敢えて人物像を作り上げたのだと考えます。
実際に、五条大橋での出会いを描くシーンも、どのドラマを見てもファンタジーにしか見えませんし、最後、奥州で絶命するシーンも無理があり過ぎるほどの立往生を描いていますので、ほとんどが現実離れしているのです。
武蔵坊弁慶が、本当にドラマのような活躍をしていたならば、どの歴史書にも同じような記述が表れるはずですが、よりによって「義経記(ぎけいき)」にしか、その記述が無いらしいので、やはり信憑性に欠けると言わざるを得ません。
私が考える源義経と武蔵坊弁慶の関係性は、単なる兵隊の一人にしか過ぎず、ドラマで描かれている内容は全てが創作であると考えます。
本当に武蔵坊弁慶がドラマのように源義経の側近として活躍をしていれば、「源義経=チンギス・ハン」を調べる中で、武蔵坊弁慶についてもっと情報が出て来るはずですが、それが無いということは不自然さを感じるのです。
武蔵坊弁慶が好きだという人には、受け入れ難い話かもしれませんねが、ウィキペディアでも創作であることを認めているようです。
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