今回は、ウィキペディアの記事から、両者が同一人物であることが本当だろうとしか思えないことが書かれてある部分をご紹介します。
小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)の説になりますが、かなりの数の根拠を挙げていますので、ご紹介します。
①奥州衣川で文治5年閏4月30日に討ち取られた義経の首は、事件を5月22日に報告し、6月13日に鎌倉の頼朝に届けられている。いくら中世とは言え、当時は早馬を飛ばせば平泉から鎌倉までは数日で使者は着くはずである。何故1ヶ月以上もかかったのか。故意に腐らせ偽物と判別できなくするためではないか。
私も同意です。もし、藤原泰衡が源頼朝の脅しに屈した話が本当ならば、いち早く義経の首が鎌倉に届くよう手配していたでしょう。
②成吉思汗(チンギス・ハーン)の少年時代の記録として「朽木の洞に隠れていて助かった」とあるが、兄頼朝の伝説と内容が重なる。
源頼朝が以仁王の命令に従い、平家打倒の戦争を起こして惨敗した時、洞窟に隠れているところを梶原景時(当時は敵方)に発見されたが見ぬふりをして助けられた、という話が有名です。
③『大日本史』などでは鎌倉に届けられた首は偽首としており、蝦夷へ逃亡したと記している。
『大日本史』を編纂したのは徳川光圀です。徳川光圀と言えば御三家と言われた水戸藩主で、彼もイルミナティの一人であり、タブーとなる真実を知っていたはずです。通説と異なる話をわざわざ書いたということは、過去の書物(例えば平家物語や吾妻鏡などのイルミナティが正式書物と認めた物)に対して反抗したことになります。攪乱工作か何かは分かりませんが、いずれにしても「義経=成吉思汗」を臭わせています。
④延宝年間の『可足記』に九郎判官の身代わりに杉目太郎が致し、行信の首が鎌倉に運ばれた、と記す。
ウィキペディアには『可足記(かそくき?)』の記述がありませんので、もしかすると載せてはまずい書物なのかもしれません。そしてこの書物は津軽藩の歴史書のようで、更に津軽には『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』という古代の東北地方の歴史が書かれた書物もあります。偽書と言われていますが、どうやら本物のようです。知られると相当まずい内容が書かれてあるために偽書と認定したのです。ちなみに延宝年間とは1673年~1680年で、4代将軍徳川家綱の時代(晩年)です。
⑤北海道と大陸の間に昔からアイヌの行き来があって、義経一行はしばらく北海道に滞在した後アイヌの水先案内人によって大陸に渡った可能性が十分に考えられるのではないか。
こう考える方が自然です。
⑥成吉思汗が1206年にハーンに即位した時の「九旒(くりゅう)の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものではないか。
源義経は秦氏の傀儡として育てられましたが、自分が源氏の血統であることも誇りとしていたはずです。源頼朝を否定する意味でも敢えて源氏に拘った可能性があります。このようにして自分が源義経であることを暗に伝えていた可能性があります。
⑦成吉思汗は笹竜胆(ささりんどう)の紋を使用した(推定)。笹竜胆(源氏の家紋)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからではないか。
論より証拠と言った感じでしょうか。似ているというより同じですね。源氏の家紋をモチーフにしたとしか思えません。しかも葉っぱの数も9つにしています。
世の中では「源頼朝の時代には家紋はなかった。」として、笹竜胆の存在を否定していますが、ではなぜ鎌倉市は以下の様な市章を用いているのでしょうか。
もろに笹竜胆ですね。
鎌倉幕府の象徴としては、やはり源頼朝でしょう。
まあ、これが当時から家紋があったことを立証するものではないとしても、一般的に世間ではこういったものを状況証拠というのですが、皆さんは如何お考えになるでしょうか。
⑧成吉思汗は二ロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことではないか。
こじつけ、と言われればそれまでですが、なるほどなあ、と思える主張でもあります。
もしも、日の国よりきた人=ニロン族であるならば、ニロン=日本だとしても納得です。
⑨成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。
別名を「クロ―」と称した、とありますが、こんな偶然があると思いますか。「源氏の総大将・九郎義経」と名乗っている様なものでしょう。
⑩沿海州ナホトカとウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、九郎判官が上陸した土地ではないか。
ナホトカとウラジオストクの場所は、北海道からもかなり近いですね。
ちなみに、ナホトカの住居には、笹竜胆の紋章が付いているものが多いそうですが、これを彼ら(同一人物否定派)はどう説明するのでしょうか。
以下が、その一部のようです。
⑪成吉思汗が滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があるのは、義経ゆかりの「平泉」によるのではないか。
こじつけ、と言われればそれまでですが、日本との共通項が容易に浮かび上がるということは、たまたまでは片付けられないかもしれません。
⑫蒙古では現在でも「オボー祭り」が8月15日に開かれているが、義経が幼年時代を過ごした京都鞍馬山でも、この日、同じような祭りが見られる。
こんな偶然は有り得ません。源義経は自ら「チンギス・ハーンは俺だ!」と言わんばかりの証拠を残していますね。
⑬成吉思汗はニルン族の貴族キャト氏族だが、「キャト」は「キョウト」「京都」出身をあらわしているのではないか。
これもこじつけ、と言われればそれまでですが、これも日本との共通項が思い浮かぶ点では、たまたまでは片付けられないかもしれません。
⑭国名「元」は「源」に通じる。
私は、なるほど!!、と思いました。
⑮年齢もほぼ同じ。義経が衣川で討たれたのが30歳で、その数年後ジンギスカンが表舞台に登場するようになった時期の年齢が30代半ばであるなら、辻褄が合うのではないか。
実は、RAPT理論によって、これと同じようなことが、明治維新の時に起きていたことが暴かれました。
「池上四郎」という人物で、「薩摩の池上四郎」と「会津の池上四郎」がいて、ウィキペディアでは両者は別人として説明されていますが、RAPTさんは同一人物と暴かれました。
薩摩の池上四郎は「いけのうえ」と読み、会津の池上四郎は「いけがみ」と読んでいて、前者は1877年の西南戦争で死んだことになっていて、後者は1877年に軽視局一等巡査として採用され、それ以降の活躍は年代も詳細に記されていますが、1877年以前のことは大雑把に書かれてあります。
この池上四郎という人物が、西南戦争における重大な秘密を握っていたため、同一人物を別人として仕立て上げたということでしょう。
重大な秘密とは「西南戦争茶番の真相や西郷隆盛生存の真相」ではないでしょうか。
興味のある方は、是非以下の対談をお聞きください。
話が反れましたが、源義経とチンギス・ハーンは、この池上四郎と全く同じ構図と言えそうです。
⑯チンギス・ハンの前半生は空白部分が多い。
これは、明智光秀=南光坊天海と同じパターンです。明智光秀も前半生は不明と言われています。源義経と同一人物ならば前半生が空白なのは当然と言えます。同一人物説を否定したいのであれば、チンギス・ハーンの前半生を明確にすべきでしょう。一応はウィキペディアには書かれてあるようですが、情報量が少ないと感じるのは私だけでしょうか。
⑰両者とも背は高くなかった。酒も全然飲めなかった。
こういった偶然は、もしかすると有り得るのかな、とは思いますが。
⑱戦術も同じ、戦い方もそっくりであった。
日本の流鏑馬と酷似しているらしいですが、偶然では片付けられないかもしれません。
⑲蒙古の地名や現地言語に日本内地、蝦夷との類似性がみられる(チタ、スルガなど)。蒙古には「源」の苗字が多い。
偶然にしては偶然過ぎますね。
⑳ラマ教の寺院に伝わるチンギス・ハンの肖像はどこか日本人的な顔立ちをしている。
これは、「お前の主観だろ!!」とツッコミが入っても仕方ないかもしれません。(笑)
おそらくは、「モンゴルのラマ教寺院に残されたチンギス・ハーン像」と言われている以下の肖像画(肖像写真)ではないかと思われます。
以上のように、もはや証拠レベルで20個の根拠が示されています。
2個や3個程度であれば、同一人物説にも懐疑的な見方をするでしょうが、20個も存在しているところを考えますと、同一人物説を肯定するしかないと、私は思います。
偶然では何個も根拠を見出すことは出来ません。
もしも同一人物でないと仮定した時、果たして20個もの説を打ち立てることが出来るでしょうか。
そもそも同一人物でない場合、共通項を見つけること自体が難しいですし、それこそ全てがこじつけレベルになってしまうでしょう。
しかも同一人物でないと仮定した時、ウィキペディアにおいて「義経=ジンギスカン説」と題して、どうやったら相当な分量の説明書きができるのでしょうか。
はっきり言いまして、関心の無い人にとっては読む気が失せるほどの多大な分量です。
現代人だけでなく、歴史的な著名人(徳川光圀や新井白石)でさえ同一人物説を主張しているわけですから、イルミナティ連中には残念ですが、同一人物説が正しいと結論付けるしかありません。
以上を持ちまして、「源義経とチンギス・ハーンが同一人物である」シリーズは終わりますが、日本で起きたことを、再度深堀出来ればと考えていますが、私だけでは無理があるかもしれません。
行く行くは完璧に解き明かしたいと願っています。
大した内容ではありませんでしたが、ご覧いただきありがとうございました。
まだまだ日本史における私の推理は続きますので、関心のある方はご期待ください。
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