私は、2023年2月から、RAPTさんの教会へ献金を行うようにしました。
聖書にも以下のような聖句があります。
新約聖書 マタイによる福音書23章23節 新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
今の自分に与えられているものは全て、神様から与えられているものです。
その顕著なものが、給料です。
給料とは「自分が頑張って働いて稼いだお金」と多くの人が考えているでしょうが、確かにそうかもしれませんが、実はそうではなく、神様が様々な企業を使って、そこで働く労働者に給料が行き渡るようにして下さっているのです。
自分が勤めている会社が倒産すれば、言うまでもなく給料も払われなくなるわけですが、倒産せずに守られているのも神様がそのように導いているのです。
世の中には、自分の勤めていた会社が倒産し、給料を貰えないという憂き目に遭った人もいるとは思いますが。
要するに、給料が手元に行き渡ることも、決して当たり前ではないということです。
そのように考えられる人が、この世の中にどれほどいるでしょうか。
だから、私は手取り額の十分の一は、神様とRAPTさんへの感謝の意味も込めて、献金としてRAPTさんへ送ることにしたのです。
私は伝道という点においては、まだまだ未熟者ですので、少しでもRAPTさんや十二弟子の方々のお役に立てればと考えています。
実は、献金を始めてから、私に対する神様の練達が始まったと感じています。
それを機に、サタンの攻撃が激しくなったからです。
特にお金に関することは、異性のことと同じくらい、私の中でも最も弱い部分です。
つまり、お金と異性に関する罪の根が、私の中で根強いということです。
給料の十分の一の献金と言いますと、手取りが20万円ならば2万円になります。
2千円ならいざ知らず、2万円となると人によっては躊躇してしまう額ではないでしょうか。
人間という生き物は、自分のために数万円使うことは何とも思わない、むしろ喜んで使う生き物ですが、他人のために数万円使うとなると惜しくなり、自分に見返りがないと嫌がる生き物ですよね。
サタンはそこを突いてきたのです。
詳細は割愛しますが、嫌なことや凹むことが立て続けに起き、一気に恵みを奪われてしまったかのような感覚に陥り、サタンから「献金をやめろ。」と囁かれているように感じたのです。
私は2万円~3万円くらい献金していましたので、「こんな嫌なことが起きるくらいなら、献金するのがもったいない。」という気持ちになったのも事実です。
正直に言いますと、「RAPTさんは本当に神様に使われている方なのだろうか。」と疑う気持ちさえ芽生えたほどでした。
それくらい、献金を行うようになってから、恵みを奪われるような出来事が相次いだということです。
しかし私は、これこそ神様に試されているのではないか、と思いました。
そう思うことで、私はRAPTさんへの献金をやめることはしませんでした。
そうしますと、更にサタンの攻撃は激しくなり、ついに私の懐刀である我社を狙ってきたのです。
二人の従業員の中にサタンが入ったのでしょう。
二人は我社を退職し、それに連動する形で売上も落ち込んでしまい、2024年に入り、更に逆風が強まり、倒産するかしないかの瀬戸際まで追い込まれました。
しかしながら不思議なことに、そのような状況下でも恵み(神様とRAPTさんに対する感謝の気持ちや喜び)が失われることがありませんでした。
その理由はおそらく、そのような艱難苦難の中でも、神様に縋りつくことを諦めず、祈り求めてきたからこそだと感じていますし、更には、RAPTさんの伝えて下さる御言葉に何度も励まされたからだと感じています。
このブログでも何度か書かせていただきましたが、経営者にとって、自分の会社が倒れる状況になって、心を平安に保ち、かつ、喜びが溢れ、かつ、そこ(経営危機)に意識が向かない経営者は、絶対に皆無でしょう。
しかし私は、常に心が平安で、喜びと感謝に溢れ、経営危機に意識が向くことがほとんどありませんでした。
いや、経営危機には意識が向いても、神様に必死に依り頼むことで、頭から意識が取れていました。
実際に、私のことを見て、悩みや苦労を抱えているように見える人はいないと思います。
現に、私は悩みや苦労は抱えていませんから。
何も、瘦せ我慢しているわけでも、意地を張っているわけでもありません。(笑)
無理やり幸福そうにしているわけでもありません。(笑)
不幸のどん底にいて、政治家や芸能人でもない限り、幸福そうにできる人間が果たしているのか、という話です。(笑)
また、自分の会社が倒れるかもしれないという時に、会社のことを何もせず、ブログやインスタグラムをやれる人が果たしているでしょうか。
むしろ、寝ても覚めても会社のことばかりが頭をよぎり、他は何も手が付かないといった状態に陥ることでしょう。
更には、そのような状況下で、笑顔で人に接したり、接する相手に優しくできる人が果たしているでしょうか。
これこそ、神様からの祝福と言わずして、どう表現すべきでしょうか。
そうです、これこそが霊的な祝福です。
肉的なものがほとんどなくても、不思議と満たされているというのが、霊的祝福の感覚です。
この感覚を多くの人に味わってほしいものです。
更に、経営危機が継続していた私は、2024年7月給料分から、自分の報酬を約三分の一減額しました。
給料の三分の一を減額するのは、ものすごく勇気が必要です。
例えば、給料30万円だった人が20万円になる話です。
多くの人達にとってみれば、生活を犠牲にしなければならなくなります。
皆さんは、自分から率先してそのようなことができますか。
できないでしょう。
1万円といえども減額はできないでしょう。
しかしながら、今の私はお金に対する執着心が無くなりました。
これは以前の私では考えられないことです。
私は、若い時から「金!金!金!」といった、強欲な男でした。
だから欲を満たすために借金までしてしまった男です。
勿論、今の私に金銭欲が全く無いというわけではありません。
分かり易く言いますと、自分のためにお金を費やしたいという気持ちが薄れてきた、ということです。
だから、給料を減額しても、私には生活を犠牲にするという感覚はありません。
普通に食べていけるので、何ら問題ありません。
金銭に対する動機が正常になりつつあるので、給料の減額が不幸なことだという認識がありません。
独身だから言えることかもしれませんが。
まあ、多くの人が給料を減額されるような不遇を被れば、不平不満、あるいは退職を考えることでしょう。
給料の減額には、それ相応の理由があるにもかかわらずです。
そういう人はまさに、自分の事しか考えていない証拠であり、自分さえ良ければいいと考えている証拠であり、自分を一番可愛いと思っている証拠です。
だから不平不満が出るのです。
こういう人達は、「感謝」とは無縁の人達です。
極端な話ですが、自分が不幸でも他人が幸福であれば満足だ、と考えていれば不平不満は生じません。
実際に、私は信仰を持つ前、以前勤めていた会社で取締役を担っていた時、まさにそのような胸中でした。
話が少々反れましたが、要するに、金銭欲も動機次第で善にもなり悪にもなるということです。
神様のお役に立つためには、やはり金銭も必要になってきますので、金銭欲は必要な要素になります。
金銭に対する動機が正常化してくるのも、神様からの祝福の一つと言えるのです。
神様の御力無くして、堕落した金銭欲を正常に戻すことは絶対に不可能です。
人間から説教されたところで、堕落した金銭欲は改善されません。
今も借金はありますし、会社の継続のため借金はしましたが、これまでは自分のために借金をしてきましたが、今では他者のために、という気持ちになっています。
我社を継続することが現時点で私に対する御心ならば、一時的に借金をすることはあっても、必ず神様がすぐに返せるだけのものを与えて下さると信じています。
それを証拠に7月以降、我社の業績が伸びてきました。
実際に8月は、昨年の8月よりも業績が向上しました。
そして9月は、私を含めて4人の働き手しかいませんが、驚くほどに仕事が入り込んで来て、結構な業績になりつつあります。
つまり、通常ならば4人では到達が困難だと思われる売上額になろうとしているのです。
これこそ、神様からの祝福だと感じています。
そうです、肉的な祝福です。
確かに給料も減らしたので、むしろ肉的には失われているように多くの人には思われるかもしれませんが、食べられないわけでもなく、罪や堕落に費やすことも無いので、不自由なく生活できています。
また、業績が伸びたということは、我社に多くのお金が入って来るということです。
神様が金銭欲を全て悪と見なされるならば、我社にお金が入らないようになさるでしょうし、そもそも私が会社経営を行うことを許諾されないでしょう。
このように、多くの人が誤解を受けていると思うので言わせていただきますが、キリスト教が禁欲を謳っているわけでは無いということがお分かりいただけると思います。
神様は逆で、全ての欲を持つことを決して禁じてはいません。
そもそも、人間を創造なさったのも神様ですから、人間に様々な欲を与えたのも神様です。
神様が仰せになるのは、人間の持つ全ての欲を神様の栄光(神の国と神の義の実現)のために使いなさい、ということなのです。
人間の持つ全ての欲を、人間を第一として(特に自分のために)使うから間違った方向へ行き、堕落することになるということです。
神様を一番にして、その次に人間です。
この順番をはき違えると、とんでもない恐ろしいことになるのです。
ちなみに、キリスト教以外の宗教(つまり、全ての悪魔教)は、だいたい禁欲を謳っています。
ヴィーガンなどはその典型です。
聖書にも以下のようにあります。
新約聖書 テモテへの手紙一4章1~3節 新共同訳 しかし、”霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったのです。
まさに、イルミナティやカルト組織、そして悪魔教のことを言っています。
そして、RAPTさんも御言葉の中で仰せになっています。
祝福の前と後にサタンの攻撃が激しくなる、と。
祝福の前には、サタンが与えまいとして攻撃・誘惑を仕掛け、祝福の後には、サタンが奪おうとして攻撃・誘惑を仕掛けてくるということです。
ですから、この祝福に浮かれることなく、更に気を引き締めて、サタンの攻撃に立ち向かえるよう準備を怠ることの無いように励みたいと思います。
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