織田信長のことは、当分の間は記事にすることはないと思っていましたが、執権北条氏のことを調べていた時に、たまたま以下のブログを発見しました。
この記事の真ん中くらいに、秦氏の説明の中で、次のように書かれてありました。 中臣氏の中で一般向けの祭祀担当は斎藤氏だとあります。 著名な人物は斎藤道三になります。 この斎藤道三の正室から織田信長が誕生しました。
斎藤道三の正室は「小見の方」といい、明智光継の娘だというのです。
明智光継は明智光秀の祖父になります。
そうしますと、明智光秀は小見の方の甥となります。
更に、織田信長と明智光秀は従兄弟ということになります。
私の過去の推理は間違いのようで、明智光秀は美濃の斎藤家の家臣で間違いないと思われます。
織田信長の実の母が小見の方であれば、織田信長の正室である帰蝶は小見の方の娘であることから、織田信長と帰蝶は兄妹ということになります。
もしもこのことが真実と考えたとしても、織田信長と斎藤道三の関係や、その時代に起きたことの整合性が取れなくもありません。
斎藤道三は、1553年に正徳寺において織田信長と会見を行うのですが、その場において「美濃を織田信長に譲る」と宣言しているのです。
これって、よくよく考えるとおかしな話です。
戦国の真っ只中にあって、たとえ和睦した相手が自分の娘婿であろうとも、自分の領土を明け渡すことは通常考えられませんが、もしも斎藤道三の実子だとすれば逆に納得です。
実際に、斎藤道三の嫡子は斎藤義龍ですから、彼に家督と領土を譲るのが普通です。
しかしながら、もしも織田信長が小見の方の子だとしたら、織田信長は正室の子で、斎藤義龍は側室の子です。
考えてみれば、嫡子は正室の子が一般的ですから、斎藤道三の「美濃を織田信長に譲る」という宣言は斎藤道三の中では織田信長を嫡子と認めたようなものだったのかもしれません。
では、通説では織田信長の父は織田信秀ですが、これはどういうことなのでしょうか。
確かに織田信秀の嫡子は織田信長であったと思われますが、織田信秀が毒殺されたことに乗じて、織田信長も殺して、斎藤道三の嫡子が織田信長になりすました、ということも考えられなくはありません。
実際に、織田信秀が死んだのは、織田信長と帰蝶が結婚して約3年後でした。
織田家を乗っ取る計略で織田信秀と和睦して帰蝶を織田信長(本物)に嫁がせ、織田信秀と織田信長親子を殺害し、斎藤道三の実子を織田信長にした、ということですが、あまりにも飛躍している推理でしょうか。(笑)
どのように成功させたかは、研究しなければなりませんが、織田信長が織田家とは関係ない人物と仮定した時に、様々なことが辻褄が合ってくる気もします。
例えば、織田信長は母である土田御前と物凄く仲が悪かったと言われていて、一方で、織田信長の弟である織田信行を溺愛したと言われています。
もしも織田信長が実子でなければ、それこそ実子である織田信行を可愛がるのは至極当然です。
土田御前は、織田信長を廃嫡して織田信行に家督を継がせようとまでしていたそうですから、余程の理由が無い限り、そこまでしないと思うのです。
廃嫡を望んだ理由が、織田信長が「大うつけ」だったから、というのは極めて薄弱と言うしかありません。
実際に、織田信行には林佐渡守や柴田勝家などの織田家の重臣が加担していました。
これもよくよく考えるとおかしな話ですよね。
織田信長は、弟である織田信行を殺害したように、尾張を統一する過程において身内を殺しまくっているのです。
悪魔崇拝者であれば当然の所業とも言えますが、それにしても殺しまくっています。
と言いますか、織田信長は尾張統一を果たすまでは、実に身内と骨肉の争いを繰り広げているのですが、ここまで身内から命を狙われるのも、よくよく考えると不思議な話ではあります。
織田信長が、実は織田家とは何の関わりもない人物だとしたら、織田家の人物を殺しまくるのも自然でしょうし、むしろ家中から命を狙われても仕方がないと言えますね。
また、織田信長と帰蝶の間には子供が出来なかったと言われていますが、この二人が実は兄妹だとしたら、それも納得できますね。
まあ悪魔崇拝者は近親相姦が当たり前なので、子どもが出来なかったのは本当なのか、という疑いは生じますが。
更には1556年に「長良川の戦い」という、斎藤道三と斎藤義龍の親子戦争が勃発したのですが、これも自然な流れと言えます。
斎藤家を継いだ斎藤義龍が斎藤道三の謀(はかりごと)を知った、とも考えられますし、逆に斎藤道三が織田信長と示し合わせて斎藤義龍を殺そうとして戦争を仕掛けた、とも考えられます。
斎藤道三が斎藤義龍に家督を譲ったのも、計略の一つだったかもしれません。
斎藤家の家臣達がこぞって斎藤義龍に味方したところから推測しますと、斎藤義龍が斎藤道三を殺そうとして戦争を仕掛けた、と考えた方が自然かもしれません。
結果的に斎藤道三は敗れて殺されました。
圧倒的な戦力の差があったと言われているから、斎藤道三も家中を敵に回してしまったということでしょう。
織田信長も援軍に向かっていましたが、あまりにも早い決着だったため、間に合わなかったのでしょう。
斎藤道三が殺されたことにより、両者(斎藤道三と織田信長)の計略は頓挫し、織田信長は自分の力で美濃を奪い取らなければならなくなりました。
それにしましても、織田信長が桶狭間の戦いの後、美濃攻略に執着し、その後「岐阜」と改めているほど美濃に拘ったのは、自分の故郷だったからと考えた方が自然かもしれません。
本来ならば尾張に執着しても良かったはずなのに、なぜか美濃に執着しましたからね。
現時点では、さきほど紹介したブログ以外で、「織田信長が斎藤道三の実子」という情報を探し出すことはできていませんが、このことが真実かどうか、深堀する価値はありそうです。
そうすると、歴史の真実が一層分かり易くなりますね。
と言いますか、これが真実であれば、それこそ衝撃的真実になるでしょうね。
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