我社は早いもので、今年で6年目を迎えていますが、その間にほとんど従業員が増えることも無く、逆に減ってしまいました。
3人退職したのですが、そのうちの1人は80歳を過ぎた高齢の従業員だったので、遅かれ早かれ退職の日を迎えるのは時間の問題でした。
しかし、ほかの2人は両者とも30代の従業員で、まだまだ我社で活躍してもらえるものと期待しておりましたが、残念ながら自ら退職の道を選び、神様から遠ざけられました。
今回、退職者について再び記事を書いたのは、聖書の聖句が実現していることを改めて感じたからです。
偶然にも、2人とも4年で我社を去っている(私から去っている)という事実がわかりましたし、そのうちの1人は、すぐさま堕落の道へ進んだ可能性があるようです。
1人は、入社日が2018年5月10日、退職日が2022年4月30日(厳密には4月21日)です。
1人は、入社日が2019年9月2日、退職日が2023年8月5日です。
2人とも、ほぼ丸4年です。
この4年という期間についての、聖書の聖句をご紹介します。
新約聖書 ルカによる福音書 13章6節~9節 「実のならないいちじくの木」のたとえ そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁(えんてい)に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』
これはどういう意味か、信仰を持っていない人には分からないでしょう。
基本的には信仰者のことを例えた聖句であろうと思われます。
つまり、3年間信仰生活を行っているのに、全く成長が感じられないから、神様がその人を見捨てようとなさったところ、「もう1年チャンスを下さい」と懇願し、神様もそれを了解し、その1年でだめなら、何があろうと見捨てる、ということです。
要は、信仰を持つようになってから4年間は神様が猶予を与えられるということです。
逆に言いますと、熱心に信仰生活を行い、神様の御言葉に従順に従っている人が、3年間で何の成長も遂げられない、ということは有り得ない、とも言えるのです。
適当に信仰生活を3年間行っていたために成長できなかったわけで、もう1年チャンスを与えたところで変わる見込みがあるかどうかは、当然ながら本人次第ではありますが、神様は、その1年間に心を入れ替えて、熱心に信仰生活を送ってくれるものと期待されて、情状酌量なさるということです。
もっとも、信仰者に向けての話ですから、今回の退職した従業員に当てはまるとは必ずしも言えるものではありませんが、私はこう考えます。
信仰を持つに至る可能性がゼロになった、つまり、救われる可能性がなくなった、と神様が認定されたので、私から遠ざけられたのではないか、ということです。
私と近くした3年間に、彼らがこれといった成長が無かったけれども、もう1年でどうなるか、神様は彼らを私の近くに置いて様子を見ておられたのでしょう。
決して私が神様に、彼らをもう1年見ていてください、と願ったわけではありません。
私は推測ですが、次のように考えました。
この2人はもともとから人間サタンであり、しかしながら、私と近くすることで、サタンの影響が少しでも小さくなり、ある程度は義に立ち返る性質を持てるかどうかの、神様の試験だったのではないか、ということです。
そうでなければ、先ほど紹介した聖書の聖句と同じような現象が起きないだろうと思うのです。
実際に、最近退職した従業員については、私は最も神様に近い存在の人間ではないかと思っていました。
私が神様に出会って間もない頃に、彼にも不思議な出来事が起きました。
彼に直接ではありませんでしたが、彼の身内の件で、彼にも益となる出来事が起きたのです。
詳細は割愛しますが、私はその出来事を聞いて感動さえしたほどです。
神様のお力を感じたからです。
更に彼は、我社の従業員の中でも、キリスト教の話やRAPT理論の話などを、最も興味を持って聞いてくれているものと思っていました。
ところが、実はその逆であったことを、神様はお見通しであられた、ということです。
人間は騙せても神様は騙せません。
なぜなら神様は霊だからで、しかも完全な方だからです。
RAPTさんが御言葉の中で仰せになっていましたが、この地上界では、人間の心の内まで人間が完全に把握することはできませんが、なんと霊界では、心の中で思ったことが周囲に筒抜けになる世界なんだそうです。
皆さんには信じられないでしょうが、想像してみて下さい。
相手の悪口を心の中で呟いても、相手には分かる(聞こえる)ということです。
異性に対して、みだらな思いを抱いて見たり接したりした場合、その異性にばれてしまう、ということです。
何と恐ろしい世界でしょう。
従いまして、心の内を知られても恥をかかなくて済むように、善良な人間にならなければいけないのです。
神様には隠し切れない理由がお分かりいただけると思います。
2人の従業員については、その心根が真に悪に染まっていたのでしょう。
彼らが退職した後で、彼らについては悪い話しか私には入って来ませんので、彼らを捨てるように促されたのは神様で間違いないと確信しています。
私の知らない所で、けっこうな悪ぶりを見せていたようです。
本人が、その悪ぶりを「悪」だと認識しているかは別ですが。
そして、最近退職した従業員の近況を知るに至ったのですが(詳細は割愛します。)、これも聖書に書いてある通りのことが起きているのだなと思いました。
新約聖書 ペトロの第二の手紙 2章20節~22節 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのために良かったであろうに。ことわざに、「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。
彼がこれを読んだら怒るかもしれませんね。(笑)
もっとも、彼が私のブログに目を通すことは、もはや無いでしょうが。
まあとどのつまり、退職した従業員の2人は、私と出会わなかった方が良かったでしょう。
もっとも、私をイエス様のような方と比較すること自体、身の程知らずではありますが、神様を知った私と出会わなかったならば、まだ幸せだったかもしれませんね。
勿論、その幸せはサタンの世界における幸せなので、私からみれば哀れな人達だと思うほかありませんが。
従いまして、信仰を持つとか持たないとか関係なく、まずは、偽善でない真に善良な気持ちを持って、毎日を過ごすように努めなければなりません。
なお、退職した従業員の2人は、改めて神様がサタンに明け渡した人間です。
おそらく本人たちは、自分の意思で私から離れたと思っているでしょうが、違います。
信じられないでしょうが、神様にそうなるよう(私から遠ざかるよう)に取り計られた、ということです。
推測ですが、彼ら2人は、我社を退職して私から離れたことを良かったと思っているはずです。
更に彼らは、神様を信じなくても、幸福に生きられると感じていることでしょう。
昨年(2022年)の4月に退職した従業員は、私が感じている限りでは、現在行っている仕事は順調な様子です。
実際に見聞きしたわけではありませんので、根拠は無く憶測に過ぎませんが、そのように感じています。
最近退職した従業員についても、楽して稼げる手段を見出したかのようで、心の中では私を嘲笑っているかもしれませんね。
しかし、彼らにもいずれ、聖書の聖句通りの憂き目に遭うことは、残念ですが決まっています。
新約聖書 テサロニケの信徒への第一の手紙 5章2節~3節 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
例えて言うならば、彼ら2人の現在は、「無事だ。安全だ。」と言える状態にあるのです。
しかし突如として、神様の裁きの日を迎える時が来て、それを避けることは絶対に不可能だということです。
その日は、明日かもしれず、数日後かもしれず、数ヶ月後かもしれず、数年後かもしれず、数十年後かもしれません。
その本人にとって、最も堪えるタイミングで裁きが敢行されるということです。
また、その裁きの内容は多岐に渡りますので、どのような内容になるかは想像もできません。
忘れた頃に起きますので、神様を侮ると本当に恐ろしい方だということを思い知る時が来るでしょう。
せいぜい、周囲を不幸に巻き込むことの無いように、願って止みません。
実を言いますと、私も正式に信仰を持つ半年前ですが、神様を恨んだことがありました。
RAPT理論にも出会い、神様にも出会っていましたが、信仰を持つまでには至っていなかった時の出来事ですが、生まれて初めて、高熱が1週間治らないという裁きを受けました。
舌の口内炎が起きたことがきっかけで、高熱を発し、体も重くて起きていられませんでした。
私は物心ついてから現在まで、発熱を起こしたのは2度か3度程度しかありません。
それくらい記憶になく、風邪を引いてもほとんど熱を出すこともありませんでしたが、その時は、風邪を引いたわけでもなく、高熱が出てしまいました。
コロナ騒動真っ最中でしたから、病院に行くことを控えていました。
病院に行けば、コロナと診断されかねないと考えたからです。
ただ、バファリンを飲むと、一時的に熱が下がり、体も楽になりましたので、大事には至っていないと思うことができました。
しかし、薬の効き目も6時間程度ですから、その後は再び高熱が出て、体も非常にだるく重く、起きていられない、その繰り返しでした。
明らかに、神様を恨んだ私への裁きでした。
何度も神様に許しを請い、熱が下がり健康を取り戻せるように祈り求めました。
ある意味、この程度の裁きで良かったと思うほどです。
神様を信じる者に対しても、けっこう厳しい裁きが行われるのに、まして神様に反逆している様な者への裁きは、いかほどのものか、想像するに余りあります。
私も神様に見捨てられることがないように、日々これ邁進あるのみです。
ちなみに、我社には4人の従業員がいますが、みんな男性ですが、彼らが信仰を持っているわけではありません。
また、信仰を持ちそうな雰囲気も現時点ではありません。
では、なぜ神様は彼ら4人を私から遠ざけないのでしょうか。
それは、私を真に慕ってくれているからでしょう。
聖書にもあります。
旧約聖書 創世記 15章6節 アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
「主」とは神様のことです。
信じることこそ、全ての始まりなのです。
決して私を神様と同じであるかのように例えるわけではなく、あくまで、考え方として述べているに過ぎません。
つまり、信仰を持っている私のことを疑うことなく慕ってさえいてくれればいいのです。
時として、私に批判的な考えを抱くことはあるでしょうが、それは大した問題ではありません。
人間である以上、他人と考えが全く同じになるということは有り得ないからです。
大切なことは、そのような状況になっても、私を慕い続けることができるか、ということです。
つまり、退職した2人は、私に対して内心では慕うどころか批判的でしかなく、かつその気持ちを抱き続けた、それを神様に見透かされていた、ということです。
その批判的な気持ちに正当性が無かった、ということですね。
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