遂に私の両親にもサタンが入りました。(その3)

神様の証

前回は、父からのメールを紹介し、サタンが入っていることの説明をしました。

今回も、その続きになります。

父からのメールが送られてきてから約10日後、両親から何の連絡も無く宅急便が届きました。

何かと思い見てみると、まず、私が過去に両親にプレゼントした品物が入っていました。

ポーチと財布でした。

関係断絶により、私からもらった物など手元に置いていたくなかったのでしょう。

これだけでも、対応と性根が醜いですね。

わざわざ送り返さずに、自分たちで処分すれば済むことだと思いませんか。

更に、私が若い時に作った借金の明細書(両親に肩代わりしてもらった借金の明細書)が入っていました。

消費者金融の契約書などの写しが何十枚と保管してあったようで、それを送り付けてきました。

ご丁寧に一覧表に作成して、私が大学の時から借金返済まで、両親が私の面倒を見た金額の合計を送り付けてきました。

これも対応と性根が醜いですね。

借金についても、その全額を両親に肩代わりしてもらいましたが、それは、私が立ち直ってほしいという一心かつ親心でしてくれたものと思っていましたが、そうではなかったということです。

そういう心情もあったでしょうが、それよりも、今回のようなことや、再び私が迷惑を掛けるようなことがあった時のために、それらを保管し、いつでも私を咎(とが)められるように用意をしていたということでしょう。

つまりは、私のことを全く信用していなかった、ということです。

もはや、今回のことが起きていなくとも、心の奥底では関係が破綻していたということです。

我が両親ながら、ここまで人間性が腐っているとは思いもよりませんでした。

私が親の立場であれば、肩代わりをした時点で自分の借金として清算しますから、その写しを保管しておくことなど無意味と思い、処分することでしょう。

話が少々それますが、私は以前の勤務先で、当時の役員が大失態を犯し、その責任を取って会社を退職して私が舵取りを任された際に、私は退職した役員の後始末を内外問わず負わされましたが、その対応に当たっては、私が失態を犯したものとして対応しました。

それほどの覚悟を持って臨まなければ、会社の立て直しなど不可能だと考えたからです。

お陰様で周囲の協力もあって、見事に会社の経営状態を回復させることができましたが、それを己の手柄としてずっと思い続けるようなことは無く、経営状態の回復は会社存続のための通過点に過ぎず、再びやり方によっては経営が悪くなるかもしれませんから、過去の成果に囚われず、同じ失態を繰り返すことの無いように、未来の成果に向けて進むわけです。

借金の肩代わりについても、同じようなことが言えると思います。

更に父は、私に対して、「戸籍を外れて、氏名も変えろ」、と書いてきました。

ここまでのことをされたら、ほとんどの人はたとえ両親といえども、憎しみや恨み、怒りの感情が湧き起こるのではないでしょうか。

そして、このことで常に頭がいっぱいになり、何も手につかない、誰かに相談したい、謝罪して許してもらいたい、といった状態に陥るのではないでしょうか。

しかしながら、信仰を持っている私は違います。

今回の件は全て、神様によるお計らいだと考えていますので、一時的に怒り等の感情が芽生えてもすぐに冷静になりますし、謝罪しなければならないことは何もしていませんし、そもそも、神様の世界では、このようなことなど取るに足らないレベルです。

従いまして、今回の件で頭がいっぱいになることは全くありません。

多くの人にっては、今回の件を「取るに足らない」とは思えないと思いますが、今の私にとっては、それが親であれ、人間からどう思われようとも、神様から「悪人」と見なされない限りは全く気にならない、ということです。

もっとも、私は両親の方こそ、神様の世界から見ても人間の世界から見ても「悪人」だと認定しています。

そもそも私の話に聞く耳すら持ち合わせていなかったわけですから、謝罪の必要があるとすれば両親側にあります。

ちなみに、この数日後、RAPTさんの朝の祈り会の御言葉の中で、「神様の御心を成すのに必ずしも日本にこだわることはない。」と仰せになられました。

その時、戸籍を外せ、と言われたことが頭をよぎりました。

そうです。

戸籍を外して本籍を変更していれば、将来いざ日本を離れるとなった時、手続きなどスムーズにできるでしょう。

その時になって両親に相談して戸籍の除籍を依頼しても、認めてくれなかった可能性すらあります。

それを両親の方から戸籍を外せと言ってきたわけですから、堂々と戸籍の変更をできるわけです。

神様に導かれているとしか思えません。

神様の御心を成すのに身内の人間関係は害である、ということでしょう。

では、なぜ神様は私に身内を捨てるように促されたのでしょうか、そのことを説明したいと思います。

前回の記事の中で、両親の行ってきた異性の堕落(罪)について書かせていただきました。

両親の堕落はそれだけにとどまりません。

両親は偶像崇拝も熱心に行っています。

継母に至っては、実の息子を事故で失っていますが、私の記憶が確かであれば、その死により支払われた保険金を使って、共同墓地を購入しています。

しかも、数千万円を費やしていることも聞いています。

厳密には、共同墓地の持ち主に数千万円を貸した、ということのようです。

以前の私には、それほど大した事とは思っていませんでしたが、信仰を持った私にとっては、これは堪えられることではありません。

キリスト教において、大罪と言われているのが、異性の罪と偶像崇拝の罪です。

なぜだか分かりますか?

RAPTさんが仰せになっていました。

この二つの罪は神様に対する不倫行為だ、と。

つまり、神様以外の存在を第一に愛している大罪だということです。

この二つの罪は、神様と人間が疎通することを完全に不可能にする罪なのです。

異性について不倫と言われることは理解できると思いますが、偶像崇拝については悪魔(サタン)と不倫をしているということです。

もちろん、両親たちはそれが神様への反逆と知らずに行い続けているので、必ずしも「悪」とは言えないかもしれません。

意図的でないから「悪」とはいえない、という意味です。

しかし、今の私にとっては、それが意図的であろうとなかろうと、堪えられるものではありません。

実際に私は、中学生や高校生の時に、両親の命令で必ず毎朝、強制的に仏壇を拝まされていました。

実のところ、毎朝このことが憂鬱で、嫌で嫌でたまりませんでした。

しかし今になってみると、真っ当な感覚だったと感じます。

ちなみに、私は以前、年に3回(年末年始、GW、お盆)帰省していましたが、実家で過ごすと、なぜか常に悲壮感や虚無感のような感覚に襲われていました。

両親の生活水準にあわせることが負担に思い、そのように感じていたと思っていましたが、実はそうではなく、熱心な偶像崇拝のお陰で、それはそれはサタンや悪霊がウヨウヨしていることが原因だったと感じますが、そう感じるのも道理なわけです。

おそらくは、私の霊魂の苦しみが私の肉体の脳に伝わっていたのでしょう。

このように、両親は大罪となる堕落を二つとも熱心に行ってきて、また、行っているのです。

異性の方は、年齢も年齢ですから、現在進行形は有り得ないとは思いますが。

それに引き換え、私の妹夫婦(※実の妹です。)は立派です。

高校時代からの交際の末の結婚で、今もお互い一途のようで仲睦まじいです。

もっとも、神様に辿り着いていませんから、立派という表現は語弊がありますが、私や両親に比べれば異性の堕落は無いに等しいです。

私は唯一、妹と疎遠となることだけが残念でなりませんでしたが、神様の御心であるならば仕方ありません。

以上のように、神様が両親と私を引き裂く理由は十分過ぎるほどだと言えます。

それから、継母のことを少々書かせていただきます。

人によっては、私が継母の悪口を書いているように感じるかもしれません。

しかし誤解してほしくないのですが、悪口というのは事実に反して相手をののしることであり、事実に即して相手の悪を批判することは悪口には当たりません。

私は中学生や高校生の時、継母に叱られることもしばしばでしたが、実のところ、あまり愛を感じませんでした。

血の繋がりが無いことだけが原因とは思えません。

親が子を叱る場合、その子に悪があるからその悪を叱責することで、子が良い方向へ向かってほしいと願って叱るはずです。

しかしながら、継母からは常に「私の言うことを聞きなさい」といった叱り方にしか感じられず、私は内心いつも反発心が芽生えていて、それを抑えることに必死でした。

私の言うことを聞きなさい、ということはつまり、自分が一番正しい、と思っている証拠です。

叱ると言うより、単に私に対して怒りの感情をぶつけていただけだと言えます。

本当に自分の行動が悪くて叱られている時は、反発心は芽生えません。

何が悪いのかをきちんと伝える叱り方こそ、愛のある叱責だと思います。

継母は、私が少しでも言い返そうものなら、ヒステリックになって怒り出すのです。

私の記憶では「お前は反抗期だ。」が18番でした。

あなたに正しさを感じないのに、反抗して何が悪いんだ、といつも思っていました。

勿論、私の方が全部正しかった、とは言いません。

いやむしろ、その反対で、私が全部間違っていたかもしれません。

いつも叱られるようなことをしていたかもしれない、という意味です。

ただ、何が悪いのか、叱られる理由をしっかり伝えてほしかった、ということです。

たとえ自分が間違っていたとしても、親の叱り方が間違っていれば、素直に聞く気になれないということです。

この世の中の、全ての親に声を大にして言いたいです。

子が反抗期を迎えているように感じるのは、それは反抗期でも何でもなく、あなた方に正しさが無いと子が感じ取れるように成長したからだ、と。

逆の言い方をすれば、あなた方に正しさ(善)さえあれば、子が反抗してくることは無い、いや、反抗できない、ということです。

これは親子関係に留まらず、全ての人間関係に言えることではないでしょうか。

私も仕事上、上司という立場を長年経験していますが、従業員や部下を叱責する場合、自分の言うことや、人の言うことを聞かなかったことで叱ったことは無く、悪い行いがあり、本人がその悪い行いに気付いていない時に叱っていました。

自分の言うことや人の言うことは、その本人の行動や相手の受け取り方、またその場の状況により、正しくもあり間違いでもある場合が大半だからです。

例えば、言葉遣いが悪いことを、会社の先輩から叱責されたとします。

言葉遣いが適切でないこと自体は「悪」と言えるかもしれません。

しかし、叱責した本人の言葉遣いも同じように悪かったら、皆さんはどう感じますか。

その先輩の叱責を、素直に聞けないのではないでしょうか。

内心、「お前に言われたくない。」と思うでしょう。

私もそうでしたから。

言葉遣いを叱責したことは正しくても、本人に叱責する資格が無いため叱責自体が間違い、となるわけです。

私が言いたいことは、そういうことです。

従いまして、「私の言うことを聞きなさい」という叱り方をする場合は、当の本人が誰よりも正しいことを実践し、そして、誰から見ても正しいことを実践していないといけません。

なお、自分が一番正しい、と思う考え方は、「高慢」であり、人を見下すことに繋がっていきます。

新約聖書のヤコブの手紙4章6節に、以下の聖句があります。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」

従いまして、「高慢」な人は、神様だけでなく人間からも嫌われてしまいます。

皆さんも、「自分が一番正しい」と思うその心根は改めなければなりません。

本当に自分の考えや行動が正しいかどうかを、客観的に見つめられる人間、もっと言いますと、神様の基準で善悪を考えられる人間にならなければなりません。

もっとも、信仰を持っていない人が神様の基準で善悪を判断することは不可能ですから、せめて、相手の立場に立って、善悪を判断してあげられる余裕を持ってもらいたいものです。

実を言いますと、父も会社の同僚などからは嫌われていたようです。

これは継母から聞いた話ですが、私も父の性格を知っていますので、今回の父の私への対応を見れば、信憑性は高いと言えます。

自分が一番仕事ができると思っていたようで、上司すら見下していたようです。

このように高慢な人間は、周囲の人間からも嫌われるということです。

本当に仕事ができて、人望があれば、出世していたでしょう。

父は定年退職するまで平社員でした。

結果が、噂の信憑性を物語るということです。

このように私の両親は、自己中心的な考え方、熱心に行う偶像崇拝、偶像崇拝の他人への強要、他人の悪口、偽善的であること、高慢であること、不倫の数々、などなど、挙げれば次から次へと切りが無いほど出て来るくらい堕落しているわけですから、むしろサタンに使われない方がおかしい、とさえ言えます。

私も、反面教師にして、己を律するように努めなければなりません。

私の場合は信仰を持っていますので、下手なことをすれば神様から裁かれると分かっていますので、常に意識しながら毎日を過ごすことはできているつもりです。

ちなみに継母は、自分では他人に好かれているような話しぶりを私にしていたこともありましたが、そもそも他人に好かれていると思うこと自体が「高慢」だと感じます。

私は、神様の観点から「善」を行っているつもりですが、基本的には人に嫌われていると思いながら、仕事も私生活も過ごしています。

世の中の多くの人は、「善」を行うことが大切と分かっていながらも、いざ「善」を指摘されると鬱陶しがるものです。

そういう意味で私は嫌われていると考えるのです。

実際に、神様の観点から「善」を行ったら、身内にとことんまで嫌われ絶縁されました。(笑)

世の中の真実を述べ伝えることは「善」であり、それを拒絶するのは「悪」です。

世の中の真実を拒絶する行為は、人を騙す行為に繋がるからです。

もっと言いいますと、世の中の真実を拒絶する行為は、サタンの行為そのものです。

だからこそ「無知」は恐ろしいのです。

本人は正しいことをやっているつもりでも、知らず知らずのうちに、嘘つきになって人を騙しているのです。

そういう意味でも、両親を含めた私の身内の罪は重いです。

世の中の真実を受け入れようとせず、命の危機に直面しかねないことを私に言ったためです。

少々話が反れましたが、私には、継母が他人に好かれる性格の持ち主にはどうしても思えませんでしたが、実は、それが確信に変わる話が浮上しましたが、神様の祝福の中で出てきた話でした。

少々記事が長くなりましたので、神様の祝福について、次回書かせていただきます。

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