私は神様からの肉的な祝福を、大きく誤解していました。

神様の証

私は、まず表題のことを神様に謝罪し、悔い改めなければなりません。

神様は信仰を持つ全ての人間に対して、霊的にも肉的にも祝福をお与えになります。

ただし、まずは霊的な祝福を中心にお与えになります。

私自身も、霊的な祝福は沢山いただいている感じを受けて毎日を過ごしています。

一方で、肉的な祝福については、『それほど与えられていない』と、最近まで大きな勘違いを起こしていました。

つまり、現状だけ見て判断していたということです。

こういった誤解が、神様への感謝の気持ちを忘れてしまう、大きな要因となるのです。

これでは、いくら信仰を持っても、世の中の人達と何ら変わりがありません。

簡単に言いますと、何事も当たり前と思う気持ち、当たり前に存在している人や物の価値を忘れる気持ち、こういったことが「感謝」の気持ちを損なう結果になっている人達が多過ぎるということです。

私は会社経営をしていますが、現状、決して潤っているわけでは無く、むしろ、衰退しているようにさえ感じますし、私の周囲の人達も同じように感じていることと思います。

従業員達も、私に神様の力が働いているかどうか、半信半疑、いや、ほとんど疑っていることでしょう。

人間的に考えると、私より繁栄している人(ビジネスで成功している人、幸せそうに家庭を築いている人、など)が沢山いるからです。

私は、ビジネスで成功しているとは言えませんし、独身ですし、まあ真逆ですね。

しかし、違います。

霊的な時間を過ごすために、経営者という肉的なものを与えられているのですが、今の私の器量に応じた肉的なものが与えられているということです。

更に、現在に至るまで、私は会社の経営者であるが故に、信仰生活(祈り、御言葉、賛美、伝道)のための時間を確保できているのです。

もしも、他人が経営する会社で働いていれば、信仰生活どころでは無かったでしょう。

自分の会社を与えられていること自体が、肉的な祝福と言えるのです。

実際に、経営者として人生を送っている人は、世界人口のわずかしかいないでしょうから。

まだまだあります。

例えば、生活に困らない程度の給料を与えられていますし、故障をほとんど起こさない車を与えられていますし、肉体の健康も与えられていますし、実のところ、何か不足しているわけではありません。

ただ、これらのことについては信仰を持っていない人達の多くも経験していることであり、神様とは関係ない、神様が与えて下さったものではない、と思われても仕方ないことかもしれません。

しかしながら、現時点で最高の肉的な祝福を受けています。

それがRAPT理論に辿り着いたこと、と、RAPTさんという神様の使命者に出会えたこと、です。

単に辿り着いた、出会えただけでなく、RAPT理論の全てを受け入れることができ、更にはキリスト教のことを深く知ることができ、信仰を持つに至ることができたことです。

RAPT理論により、世の中の本当の姿を知ることができました。

それにより、コロナ騒動による影響(ワクチン接種による健康被害など)を受けることなく助かりました。

真実を知ることができたことこそ、最高の肉的祝福と言えるでしょう。

何せ、RAPT理論を伝えても、それなりに受け入れる人はいても、私のように感動する人間は、周囲には一人もいませんし、あろうことか、知らない方が良かった、という人さえいたほどです。

哀れでなりませんが、これだけでも、他人との大きな違いがあるのです。

それでいながら、神様から肉的な祝福をそれほど受けられていないと思っていたわけですから、どれほど私は愚か者であったか、改めて認識させられました。

私は信仰をもって2年が経過しましたが、まだまだ肉性が強い状態にあります。

「肉性が強い」とは、「罪(聖書で悪とされていること)が多い」ということですし、何より、世の中の物にまだまだ未練を持ちながら生きているということです。

サタン的な考え・欲望、人間的な考え、世の中的な考えが、私の中にまだまだ残っているということです。

だからこそ、現状の私に必要以上の肉的なものが神様から与えられていないのです。

では、人間が考える「肉的な祝福」とは何でしょうか。

お金持ちになりたい、会社で出世したい、ビジネスで成功を治めたい、周囲の人達からもてはやされたい、素敵な恋人がほしい、素敵な家族に恵まれたい、美味しい食事がしたい、美味しいお酒が飲みたい、異性にもてたい、高級車に乗りたい、素敵な洋服を着たい、ハンサムになりたい、美人になりたい、世界的に有名になりたい、老後の安泰を手に入れたい、マイホームを持ちたい、など言い出したら切りがない位、沢山あることでしょう。

そして、これらの願望は、残念ながらそのまま罪に直結してしまいます。

例えば、今の私が会社の経営に成功して、多額の報酬を手に入れたら、それを神様の栄光のためだけに使用できればいいのですが、間違いなく、快楽享楽といった自分の欲望を満たすことにも使う自信があります。

そんな自信は必要ないのですが、つまり、私はまだまだ罪に誘導され易い人間だということであり、神様も私以上に私のことを把握されているということです。

だから、必要以上の収入は現時点で与えられていません。

決して不足することはありませんが、少々無駄遣いをしたり、罪に使ったりすると、すぐに不足してしまいますから、神様の計られることは絶妙だと言えます。

ただ、そうは言いましても、私だって、会社の経営が上手くいかなかったり、自分の願いが叶えられなかったりすれば、それはそれでやはり苦しいです。

それに加えてサタンからの攻撃にも遭えば、更に肉的には苦しい状態に陥りますし、現に私は少々肉的には苦しんでいます。

以前の記事で、「心の平安がある」と書きましたが、このお陰で肉的な苦痛がそれほど気にならないのですが、これこそが霊的な祝福になります。

肉的に苦しくても、霊的に祝福されていると、精神状態が苦しくなくなる、ということです。

世の中の人達は、肉的な苦しみが来ると、同時に精神的な苦しみが来るので、時として鬱状態になり、時として人を強く憎んだり恨んだりすることになり、時として強烈な絶望に苛まれるのです。

実際に信仰を持つ前の私はそうでした。

鬱になったり、人を強く憎んだりすることはありませんでしたが、絶望感は何度も味わいました。

では、先の緑の太字の肉的願望を抱いてはだめなのでしょうか。

決してそんなことはありません。

むしろ、願望として抱くことを神様は禁じていません。

このことを多くの人達が誤解してしまうのです。

神様は、「あなたの願望を全て叶えてあげるから、まずは私に投資し私を一番に求めなさい。」と仰せになっているのです。

全てにおいて物事には順番というものがあります。

私は警備業界にいて、工事現場で仕事をする機会が多いですが、家を建てるのにも順番があり、道路を造るのにも順番があります。

そして、完成するまでそれなりに時間もかかります。

その順番を間違うと家も道路も作れませんし、完成しても酷い目に遭いますし、下手をすれば一からやり直し、なんていうことも有り得なくはありません。

人生そのものですね。

順番を間違うがために、人間は多くの失敗、過ちを犯し、後悔の多い人生を送る羽目になるのです。

順番とは秩序と同じですね。

お店で買い物をしてレジで待っている最中に、割り込みをされたら誰であれ気分を害します。

秩序が乱されるために、気分を害するわけです。

人生における正しい順番とは神様を一番にすることで、それにより人間としての秩序が保たれるのです。

つまり、神様を一番にすることで、その人の肉的願望が叶えられる、ということです。

勿論、肉的願望が叶えられるのには、家や道路が完成するように時間がかかるというわけです。

世の中の人達は、神様無しに肉的願望を追い求め続けるために、失敗し、落胆し、絶望し、後悔するのです。

聖書に以下のようにあります。

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。(新約聖書 マタイによる福音書22章37~38節)

そして、RAPTさん(神様が遣わされた中心者)が御言葉の中で伝えて下さったことがあります。

RAPT有料記事44(2016年2月22日)神様が人類に用意した三つの大きな祝福。                 今回のお話は、特にこの有料記事を長く読まれている方にとってはとても重要なお話です。        ある意味、信仰をこれからも一生きちんと保てるかどうかを左右する話でもあります。                           神様は我々人類に対して、大きく三つの祝福を用意してくださっています。                       簡単に言うと、先ず一つ目は「霊魂の成長」の祝福です。                                            二つ目は「結婚」の祝福です。                                                    三つ目は「万物を治める」祝福です。                                               これによって、人間は「霊・肉・魂」すべてにおいて満たされ、この世でもあの世でも永遠に幸せに暮らすことができます。                                            今回は、この三つの祝福を全て余すことなく受けるためにはどうすればいいのか、その具体的な方法についてお話しています。

この記事は、お金を払って購読する記事なので、これより先は公開できませんが、ここに書かれてある「霊魂の成長」の祝福を、私は実感できています。

結婚と万物は、これこそが肉的な祝福になり、具体的には、緑太字で記した内容そのものになります。※お酒とたばこはダメです。

従いまして、キリスト教は決して禁欲生活などではなく、むしろその逆で、肉的願望を持っていないと信仰も続かないと言えるでしょう。

実際に、私は自分の肉的願望も、毎日のように神様に祈り求めています。

それ故に、現状で与えられているものに対して、まるで与えられていないかのような認識を持っていたというわけです。

こういった人間のことを、世の中でも「クズ」や「クソ」といった具合に、最低レベルな言葉、不潔レベルな言葉で表現します。

そういった人間にならないよう、神様への感謝の気持ちを絶対に失うことなく、毎日を生きる決心を改めてできました。

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