織田信長と徳川家康と明智光秀の関係、そして桶狭間の戦い前の推理。

歴史

はじめに申し上げますが、推理小説的感覚でお読みいただけると幸いです。

今回は、改めて織田信長と徳川家康と明智光秀の関係をより深堀り、いや、推理してみたいと思います。

また、桶狭間の戦いの前の出来事についても、勝手に推理してみようと思います。

前回の歴史の記事の本能寺の変について、一つ書き漏らしたことがありました。

信長と家康との関係において、歴史に詳しい方ならば、私の提唱する両者の良好な関係に対して、疑問を呈する出来事がありました。

家康の正室である築山殿と、嫡男の徳川信康の一件です。

信康切腹事件と言われている出来事ですが、概要を説明しますと、築山殿と信康が甲斐の武田氏に内通し、そのことが信長に知られ、信長から信康処刑命令が出され、家康は両者(築山殿と信康)を殺害した、という出来事です。

通説では、家康は信長の命令で、妻である築山殿と嫡男の信康を殺した、とされています。

ゆえに、家康は信長に少なからず恨みを抱いていた、となっています。

私の提唱する、信長と家康の関係が良好だった、というなら、この出来事をどう説明するんだ!と指摘を受けそうです。

これも、この通説が正しいという前提で考えればおかしいことになりますが、そもそもこの通説自体が誤りなのではないかと思うのです。

実は、この事件に関しては、真逆の説があるのをご存じでしょうか。

すなわち、家康は自分の意志で妻子を殺害した、というのです。

信長は「家康殿の好きにしなさい」とだけ伝えた、という説です。

なぜ、このような真逆な説が存在するのでしょうか。

これは、実のところイルミナティの常套手段でありまして、我々を真実から遠ざけることが狙いなのです。

そして私は、後者の信憑性が高いと推理します。

では、この時期に一体何があったのでしょうか。

この、妻子殺害事件が起きたのが、1579年です。

この当時、何が起きていたかと言いますと、前回の記事で書きました通り、信長がイエズス会を裏切った頃です。

築山殿と信康が武田氏と内通していたということですが、二人だけで内通するのは不可能でしょう。

やはり、家臣の中から仲介者や加担者がいなければ到底無理な話でしょうが、不思議なことに、妻子以外で処刑された者がいません。

従いまして、武田氏との内通疑惑は後世の作り話である可能性が高く、隠したい何かがある、ということでしょう。

その隠したい何かとは、織田信長のイエズス会に対する裏切りです。

前回の記事でも書きましたが、そもそも織田信長がある程度成功できた理由は、イエズス会からの支援があったため、という事実が隠されています。

信長がイエズス会と離反したために、徳川方もイエズス会から離反する立場となったわけです。

※後に、家康は関ヶ原でイエズス会側の武将たちと戦争をしています。

RAPTさんの以下の記事を参照ください。

織田信長と徳川家康とイエズス会の因縁の関係。関ヶ原の戦いは「イエズス会」と「エリザベス一世」との代理戦争でした。

私の推理では、家康の妻子は、家康からのイエズス会離反命令に背いて処刑された、ということではないかと考えます。

桶狭間の戦い後、家康と築山殿とは仲が悪くなったと考えられますが、信康については、後継者に相応しい人物だったのかもしれません。

実際に、信康の「信」は信長の「信」と言われていますし、信長は娘の徳姫を信康の正室として与えています。

ちなみに、築山殿は今川義元の姪と言われていますから、今川氏の人物ということになります。

通説では、築山殿と信長の娘である徳姫は、折り合いが悪かったということですが、確かに納得できる部分はあります。

築山殿から見れば、徳姫は親族(今川氏)の敵(かたき)のような立場ですからね。

やがて信康と徳姫の夫婦仲も悪くなるようですが、信長のイエズス会離反が原因の可能性があります。

夫を説得できないと考えた徳姫が家康に相談し、家康は家臣の酒井忠次に命じて信長のもとに派遣し、信康がイエズス会との関係を断ち切らない旨を信長に報告し指示を仰いだ、という流れではないでしょうか。

それで信長は「家康殿に任せる」と伝えたと考えます。

もともと家康は、イエズス会に批判的な立場だった可能性も否定できません。

これは、家康が出雲族で、イエズス会が秦氏側であったためだと考えられます。

※出雲族と秦氏は、それこそ聖徳太子の時代から現代に至るまで争っていますが、この歴史的事実を学校でもドラマでも教えてくれませんし、そもそも出雲族や秦氏、大和族のことすら教えてくれません。

イエズス会が絡んでいると考えると、家康が妻子を殺害する動機は十分と考えられます。

果たして家康は妻子を殺害するのですが、先に築山殿を殺し、その後、信康を処刑しています。

先に築山殿を殺したことにも何か理由や狙いがあったと思いますが、この点は私も推理できません。

というわけで、信康切腹事件はイエズス会が原因で起きた出来事である、と私は推理します。

従いまして、この件が原因で家康が信長を恨んだ、という可能性は、私の推理上ではゼロです。

では、少々長くなりましたが、ここから本題の、信長家康光秀の関係と、桶狭間に至るまでの、とんでも推理をしてみたいと思います。

まず、家康(幼名を「竹千代」と言います。)は幼い時に織田家の人質となっています。

間違いなく、ここで信長と家康は出会っています。

その2年後、家康は今川家の人質となっていますが、ここに信長の策略をはめ込んだ、とするとどうでしょうか。

つまり、信長は今川義元を潰し駿河府中を乗っ取る野望を抱き、竹千代(家康)を利用した、という推理です。

この時点で既に明智光秀が登場する、という私の推理です。

明智光秀は信長が若い時に出会った坊主、あるいは、霊媒師、あるいは、呪術師であり、織田家中でも信長しかその存在を知らなかった、という、私のとんでも推理です。

余談ですが、それこそ1992年のNHK大河ドラマ信長で、平幹二朗演じる加納随天(魔術師的存在で織田家三代に仕えている設定)という架空人物の存在が、実は明智光秀の本当の姿、という可能性がなくはない、と私は勝手に思っています。(笑)

私は、明智光秀=南光坊天海という説を支持していまして、明智光秀は徳川政権下で、南光坊天海として元の姿である坊主、あるいは、霊媒師、あるいは、呪術師に戻って、家康、秀忠、家光と徳川将軍家三代に渡るブレーン的役割として活躍したのではないかと推理します。

明智光秀と徳川家康も、古い付き合いなのではないでしょうか。

話を元に戻します。

信長は、竹千代を今川に送り出す際に、密かに明智光秀を竹千代の警護的役割で竹千代と共に駿府へ派遣した、という推理です。

従いまして、当時の織田家当主である信長の父の織田信秀すら、そのことを知らなかった、という推理です。

そこでまず、信長は父親である信秀を殺害(毒殺)し、家督を奪い、家中から邪魔者を取り除く動きを実行したのです。

この父親殺害が起きたのが1552年です。

そして、桶狭間が起きる8年の間に、信長は身内をことごとく殺害しています。

私としては、桶狭間に備えるために着々と準備をしていたと考えます。

更に、今川方にいる明智光秀に、今川義元の軍師である太原崇孚(=雪斎)を暗殺するよう指示を出しました。

太原崇孚は、若い時の家康の教育係だったと言われている僧侶でした。

※2007年のNHK大河ドラマ風林火山のシーンで、伊武雅刀演じる太原崇孚が、竹千代の目の前で飲酒しながら眠りについてそのまま死ぬというシーンがありますが、これこそ史実かもしれません。

つまり、竹千代(家康)によって毒殺された(実行犯は光秀)、ということです。

軍師(ブレーン)である太原崇孚を殺すことで、義元の力を削いだのです。

ちなみに、太原崇孚が死んだのが1555年(桶狭間の5年前)です。

そして、竹千代は元服して松平元康(はじめは松平元信)と名を改めて、築山殿(今川義元の姪)を正室にします。

※松平元康では分かりにくいので、これ以下「家康」と表記します。

家康は、今川方から正室を迎えたことにより、今川氏の親戚となったわけですが、これも今川方を油断させる作戦だったと考えます。

ちなみにこの頃、美濃で斎藤道三とその嫡子斎藤義龍が戦争を始めたのです(長良川の戦い)が、もしかすると信長にとっては、気がかりであり誤算だったかもしれません。

※このようにこの時代は、親子で殺し合うことは当然の出来事でした。

信長は斎藤道三と同盟していたようですが、おそらく義龍側に寝返って道三を裏切ったものと考えます。(長良川の戦いは、義龍の圧勝でした。)

私の記憶が正しければ、実際に、長良川の戦い後、信長と義龍は戦ってはいません。

あくまで、信長は今川攻略に専念したはずです。

そして、桶狭間の戦いで家康は今川方として先陣を任されていますが、義元の命令ではなく自ら願い出た、と考えます。

ただこの戦いで、家康の軍勢に攻められた織田方の武将で、信長の家臣であった佐久間盛重が討ち死にしていますが、信長と家康が通じていれば、これをどう説明するかと言われそうですが、簡単です。

信長は佐久間盛重を犠牲にしたのです。

最初から敗北するつもりで、敵にも味方にも信長と家康が通じていることを悟られないようにした、ということです。

織田方は故意に敗北することにより、今川義元を戦場に誘い出す戦略だったと考えます。

そして、今川義元がどこに陣を敷いてどこに居るか、家康を通して(又は光秀を通して)信長には筒抜けだったのです。

だから、今川義元をピンポイントで討ち取ることができたのです。

桶狭間の戦いは、織田信長の奇襲ではなく、信長と家康が打ち合わせのもとで今川義元を討ち取った戦いである、というとんでも推理です。

更には、桶狭間の戦いは、今川義元が仕掛けたのではなく、織田信長から仕掛けた戦いだったかもしれません。

従いまして、信長と家康の同盟は、桶狭間の戦いの後ではなく、人質時代から成立している、と私は推理します。

実際に、桶狭間の戦い直後、家康は駿河府中に戻らず三河岡崎に留まっているのです。

これは、どう考えても不自然でしょう。

故意に岡崎に留まり、義元無き今川を潰すための体制を整えていた、としか思えません。

果たして、家康は駿河府中を乗っ取ることに成功し、信長は美濃乗っ取りに着手するのです。

このように、信長家康光秀の三者の関係は、すでに早い段階から出来上がっていた、というのが私の推理です。

明智光秀の前半生が諸説紛々な理由は、その前半生が明らかになると、歴史の知られてはまずい真実が知られ、日本史の常識が大きく覆(くつがえ)されるから、と私は推理しています。

だから彼らの年齢も、誤魔化されているかもしれません。

まあ、とんでも推理かもしれませんが(笑)。

勝手な推理をしましたが、そもそもドラマなどで世間に公開されている歴史内容も出鱈目ばかりですので、私がどのような推理をしようが自由であり、とやかく言われる筋合いはありません。

それでは、次回は本能寺の変の推理その2を記事にしようと思います。

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