今回は、久しぶりに日本史の記事になります。
少しタイトルを変更しています。
前回のこの記事(大坂の陣も秦氏VS出雲族であり、関ヶ原の戦いの延長戦だった?(その1))では、豊臣秀吉死去から関ヶ原の戦いまでの2年間を推理しました。
関ヶ原の戦い以降からお話をさせていただきます。
関ヶ原の戦いから3年後の1603年に、徳川家康は征夷大将軍となって、江戸に幕府(出雲族政権)を開きました。
更に、その2年後の1605年には、嫡子の徳川秀忠に征夷大将軍の座を譲り、徳川政権樹立(出雲族の支配)を公にしました。
ちなみに、関ヶ原の戦いに敗れた秦氏側の武将たちは、領地をことごとく没収され、その多くが浪人の身となりました。
五大老であった毛利輝元は120万石から30万石の大減俸、上杉景勝も120万石から30万石への大減俸を味わうことになりました。
彼らは服従したため、もしくは、何らかの裏事情があり減俸で許されたのでしょうが、例えば真田昌幸・信繁親子のように、最後まで服従を拒絶した秦氏側の武将たちは、改易(領地没収)となりましたし、豊臣家の家臣たちの多くは処刑されました。
徳川秀忠が征夷大将軍になってから、秦氏勢力を抑えるため、ある事件を表沙汰にします。
それが、1609年に起きた猪熊事件と言われる宮中重大事件であり、朝廷内の姦淫事件でした。 猪熊事件
当時の天皇の後陽成天皇と豊臣秀頼の接近を妨げるため、朝廷内の粛清に出たわけです。
朝廷(天皇家)の姦淫事は、それこそ昔から当たり前のように行われていたわけですから、悪魔崇拝者の間では、殊更に問題視するべき内容ではありません。
それをわざわざ表沙汰にしたということは、天皇家を自分たちの言いなりに抑えたい出雲族側の意向がありありと見えます。
あるいは、豊臣秀頼の関白就任などを巡って豊臣家と通じていた公家たちを粛清するための措置だった可能性もあります。
実はRAPT理論により、出雲族は天皇を軽んじる集団であり、秦氏は天皇を重んじる集団であると暴かれていますので、この猪熊事件はRAPT理論の法則通りの出来事だと言えるわけです。
何せ、天皇家を江戸幕府が裁いている(処刑している)わけですから。
この事件は知らない方が多いかもしれませんが、2000年大河ドラマ「葵 徳川三代」では取り扱っています。※RAPT理論を知った私からしますと、これを取り上げたのはいささか墓穴です。
そして、1611年に一つの大きな出来事が起きます。
それが「二条城会見」です。 二条城会見
この会見は、表向きは、もしくは、通説では、徳川家康と豊臣秀頼の顔合わせでした。
ところで、一つ重要なことをお伝えするのを忘れていました。
豊臣秀頼は、正室として千姫を迎えていますが、この千姫は、徳川秀忠と江(ごう)との間に生まれた女性でした。
淀(豊臣秀頼の母で江の姉)からすると千姫は姪となります。
こうしてみますと、豊臣家の内情は、逐一、徳川方に漏れていたのではないかと推測します。
それと同時に、淀や千姫を通して、徳川方が豊臣家を操っていたのではないか、とも推測します。
もっと言いますと、豊臣家には実に、徳川方のスパイではないかと思われる人物たちが、家臣として多くいました。
例えば織田有楽斎(織田信長の弟)、片桐且元(大坂の陣の際に豊臣家を裏切る)、大野治長とその母(大蔵卿局)などです。※あくまで私の主観です。
私は、織田信長の時代から大坂の陣まで、一本の線で繋がっていると考えています。
つまり、徳川家康と明智光秀の、イエズス会と豊臣秀吉(秦氏側)に対する徹底した復讐の念ではないかということです。
淀は豊臣秀吉を、千姫は豊臣秀頼を唆すための刺客、現代風に言いますと工作員であったと考えます。
そして淀には豊臣秀頼まで産ませて、彼を利用して日本国内の秦氏勢力排除を企んだ、ということでしょう。
まあ、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子であったかどうかも怪しいです。
もしも、豊臣秀吉には子供ができなかった(子種がなかった)、という話が事実であるならば、淀にだけ豊臣秀吉の子供が産まれ、それも2人も産まれた、という話が不自然過ぎると感じるのは私だけでしょうか。
更には、もしかしますと豊臣秀頼は、淀の実子でない可能性すら私は考えます。
話を元に戻します。
私が推測する「二条城会見」は、イエズス会(代表として豊臣秀頼)とエリザベス女王(代表として徳川家康)との代理会見だったのではないかと考えます。
この会見で、イエズス会側が出雲族側から屈辱を受けたのではないかと私は考えます。
豊臣秀頼が徳川家康に対して臣下同然の対応を取ったように書かれてありますが、これこそ真の有り様は、出雲族による秦氏への侮辱行為だったのではないかと推測します。
そして、イエズス会側が再び出雲族打倒を決意し、大坂の陣勃発へと展開することになったと考えます。
大坂の陣の引き金になったのが「二条城会見」だったと考えた方が自然な気がするのですが、果たしてどうでしょうか。
そして、大坂の陣が勃発するきっかけとなった大事件が発生します。
それが、「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」です。 方広寺鐘銘事件
通説では、徳川方が戦争(大坂の陣)の口実にした事件と言われていますが、私は逆だと考えます。
つまり、豊臣方(秦氏側)から徳川方(出雲族側)への宣戦布告だと考えます。
大坂の陣を引き起こしたのは秦氏側だったということです。
もっと言いますと、イエズス会側である豊臣方に秦氏勢力の武将たちが集結し、戦闘用意が整ったので、故意に方広寺鐘銘事件を起こしたと私は考えます。
なぜならば、方広寺に納める鐘銘文(分かり易く言いますと、寺に寄進する祈願書のようなもの)の中に、明らかに徳川家康を呪詛する文言を刻み、豊臣家の繁栄を願う文言を刻んでいるからです。
それは、「国家安康」「君臣豊楽」という二つの文言でした。
通説によりますと、豊臣方はこの二つの文言に他意は無い(悪意は無い)と弁明していますが、明らかに悪意のある文言だと言えます。
「国家安康」については、徳川方の言い分は、「家康」の文字を裂いているので、徳川家康を呪詛する意思がある、ということですが、まさにその通りだと思います。
本当に豊臣方に悪意が無ければ、わざわざ誤解されかねない文言は使わないでしょう。
従いまして、豊臣方からの宣戦布告と考えた方が筋が通る気がします。
ちなみに、大坂の陣はどのドラマを見ても、壮大な戦争として描かれていますが、豊臣方は一体どのようにして大きな戦争が出来る資金力を得ていたのか、RAPT理論を知るまでは私も大きな疑問の一つでした。
豊臣方の軍勢のほとんどが、関ヶ原の戦いで改易となった浪人武将たちの集まりで、資金力など全く無かったはずなのに、どこから大量の武器や鎧、兵隊を用意できたのか、不思議でなりませんでした。
豊臣秀頼の禄高=65万石では、まともに武将たちを雇えないはずです。
現代で例えると、中小企業の資金力が大企業の資金力に絶対に勝てないのと同じ状況だったと言えるのです。
しかし、豊臣方の軍勢の正体が、イエズス会から支援を受けている秦氏側の武将たちの集まりだと分かった時、資金力の謎が簡単に解けるのです。
イエズス会ならば十分な資金力がありますからね。
だからこそ、大坂の陣は壮大な戦争になったのです。
それこそ、関ヶ原の戦いと変わらないくらいの壮大な戦争でした。
ちなみに、大坂の陣で大活躍した豊臣方の武将としては、真っ先に真田幸村(真田信繫)が思い浮かぶと思いますが、見事に「真田の赤備え」が形成されています。
上の画像は、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」のワンシーンですが、大坂の陣での真田軍です。
そして、これこそが、自分たちが秦氏だと名乗っている様なもので、資金力があると誇示しているようなものです。※秦氏のシンボルカラーは「赤」だからです。
ただ、徳川四天王の一人、井伊直政の軍勢も「井伊の赤備え」と言われていましたから、これはどうなのか調べてみる必要はあるでしょうね。
大坂の陣における豊臣方の軍勢ですが、冬の陣では9万人、夏の陣では5万5千人と言われていますが、これだけ見ても、何らかの莫大な支援があったことは明白です。
つまり、大坂の陣も、出雲族VS秦氏と考えれば、この軍勢の数の謎も容易に納得できます。
結果としては出雲族の勝利(徳川幕府の勝利)となり、豊臣秀頼、母親の淀は大坂城内で自害して死んだことになっていますし、徳川家康も大坂夏の陣で絶命したという逸話があります。
最後に、これらのことを推理してみましょう。
まず、徳川家康戦死説ですが、本当でもあり嘘でもあると思います。
どういうことだと言われそうですが、要するに影武者の存在です。
少し遡りますが、徳川家康は1603年に征夷大将軍に任命されましたが、その2年後には後継者である徳川秀忠に征夷大将軍の座を譲りましたが、もしかするとこの時に本物の徳川家康は死んでいたかもしれません。
つまり、徳川家康が死んだので、後継者の徳川秀忠に将軍職を譲らざるを得なかった、とも考えられ無くもないのです。
更に、天海となった明智光秀も、この頃から歴史の表舞台に登場してくるのですが、徳川家康が死んだので代理的な立場として登場するようになった、とも考えられなくもないです。
徳川政権を盤石にする、徳川の世襲として徳川が世を支配する、という主張の表れ、と説明している専門家もいますが、徳川家康が将軍のままでも十分、権威も支配体制も世に知らしめることができるはずです。
いやむしろ、幕府を樹立した直後ですから、数年は将軍として支配体制を固めることをすべきではないでしょうか。
実は現代でも、安倍晋三は2020年に内閣総理大臣の座を降りましたが、この時も本物は既に死んでいたと言われています。
そして、2022年に襲撃を受けるまで(これも茶番ですが)、影武者が本人に成りすましていました。
影武者を立てて、さも本人が生きているかのように見せかけることは、昔から使われているイルミナティの常套手段なのです。
これと全く同じだと感じませんか。
本人が生きていることにするための工作の可能性があるということです。
1605年には徳川家康が死んでいたとすれば、その後は影武者を立てて徳川家康が生きているかのように装っていた、ということです。
そして影武者は一人や二人ではありません。
何人も用意されていたはずです。
大坂の陣でも影武者を用意していて、真田幸村もしくは後藤又兵衛が討ち取ったのは影武者の徳川家康だった可能性もあります。
公式発表では、徳川家康の死は1616年4月と言われていますが、豊臣滅亡が1615年5月ですから、約1年後ということになりますが、これもまた都合が良いと言わざるを得ません。
豊臣滅亡(秦氏勢力排除)に成功した直後の死ですから、実に怪しいと感じます。
私の推理では、1605年から1616年までは影武者が徳川家康を務めて、その間に数人の影武者が死んだ、ということです。
そうすれば、逸話がいくつも存在したとしても不思議ではありません。
もしかしますと、二条城会見によって徳川家康が偽物だと豊臣方に知られ、豊臣方が勝機ありと判断して大坂の陣への流れになった可能性さえあるかもしれません。
また、徳川家康が影武者であることが豊臣方にバレてしまったことに焦りを感じた幕府側も、一刻も早い秦氏との戦争を望んだ可能性も無くはないですね。
方広寺鐘銘事件は、双方の利害関係が一致した事件だったかもしれません。
次に、豊臣秀頼ですが、実を言いますと生存説があるのです。
「大坂の陣」のウィキペディアにも以下のように書かれてあります。 鹿児島県には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼・重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という説がある。京都大坂では陣の直後頃に、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」という京童に歌われたという。
私は、この説の信憑性はかなり高いと考えます。
「信繁」とは真田幸村のことで、「重成」とは木村重成という豊臣秀頼の重臣だった一人です。
しかも「鹿児島県」がその信憑性を高めてくれています。
つまり、鹿児島県(当時は薩摩)とは、実は秦氏が支配する領域で、島津家が治めていました。
だからこそ、イエズス会が初来日した場所が鹿児島だったのです。
鹿児島が豊臣秀頼を匿う理由は十分にあると言えるのです。
秦氏=イエズス会(豊臣秀頼)=薩摩=島津家ですね。
最後に、豊臣秀頼の母である淀ですが、この女性にもやはり生存説がありました。
私は基本的には、生存説や同一人物説は正しいと考えています。
その理由としては、当時はテレビや携帯電話等がなかったわけですから、その土地(当人が逃れてきた場所)の人達が実際に見聞きしないと、その場所での伝説が生まれないと思うからです。
ちなみに淀の生存説は2つあり、ウィキペディアにも以下のように書かれてあります。 淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては、島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説や上野国厩橋(うまやばし)まで遁(のが)れてきたという説がある。
もしも、都市伝説のように捉えるならば、もっと抽象的になるはずですが、けっこう具体的なのです。
例えば、単なる伝説ならば「九州へ逃れた」というように、場所の特定がザックリになるということです。
しかも群馬県前橋市の元景寺に淀殿と伝わる墓があるそうで、こういうのを世間一般では「証拠」と表現します。
ちなみに、上野国厩橋=群馬県前橋市ですから、ドンピシャということです。
島津氏を頼った説については、豊臣秀頼のことなので、淀も一緒だったと考えたわけでしょう。
私の推理のように、淀が徳川方のスパイであったならば、大坂夏の陣で大坂城が陥落する前に、徳川軍から救出されたと考える方が自然でしょう。
そして、関東(江戸)に送られたものと考えますが、淀のことは世間的には死んだということにしたかったでしょうから、江戸ではなく、比較的近い上野国(現=群馬県)で過ごさせたのではないかと考えます。
もしかしますと、徳川方は淀も秦氏滅亡の犠牲にしようと企んでいた可能性もあります。
彼らは悪魔崇拝集団ですから、仲間の命さえ惜しげもなく捨てることが出来ます。
また、豊臣秀頼の正室だった千姫は、ドラマでも大坂城陥落前に救出されている様子が描かれて、徳川家康に豊臣秀頼の命乞いを願っていますが、私の推理では、千姫は徳川方のスパイだと考えていますので、救出されたことは事実でも、命乞いは有り得ないと考えます。
以上のように、出雲族勢力である徳川方は、大坂の陣によって、日本国内における秦氏勢力を滅ぼすことに成功するとともに、本能寺の変による織田信長の仇を討つことにも成功しました。
おそらくは、本能寺の変から大坂の陣まで、一本の線で繋がっていると考えられます。
出雲族の秦氏への復讐であったと同時に、明智光秀による豊臣秀吉への恨み晴らし、もしくは、明智光秀による徳川乗っ取りだった、という見方も出来なくはないです。
以上のように、大坂の陣とそれぞれの死について推理してみました。
何度も言いますが、推理小説感覚で「ふ~ん」と思いながら読んでいただければ幸いです。
調査不足もかなりあると思いますので。
次回の日本史の記事は、奥州藤原氏の時代、源平合戦、鎌倉幕府創設期、鎌倉滅亡から建武の新政、足利幕府創設期から観応の擾乱、応仁の乱など、どこかの時代を推理してみたいと思います。
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