源義経とチンギス・ハンは同一人物である。その1(彼の幼名に隠された意味)

歴史

戦国時代の記事を書いた後、太平記の時代(鎌倉時代末期から室町時代初期)を記事に書こうと思っていたのですが、いまいち納得のいく内容が書けませんでした。

そして最近、源義経のことが頭に浮かび、先に彼のことを記事にしようと思い立ちました。

神様からの霊感かもしれません。

不思議と、源義経のことを書きたいと思いました。

源義経は、多くの時代劇ドラマで、悲劇のヒーローとして描かれていることが多く、彼を好きな日本人もさぞや、多いことでしょう。

大河ドラマが好きな私ですが、源義経が登場する大河ドラマも結構あります。

「源義経」 1966年 演=尾上菊之助

「新・平家物語」 1972年 演=志垣太郎

「草燃える」 1979年 演=国広富之

「炎(ほむら)立つ」 1993年 演=野村宏伸

「義経」 2005年 演=滝沢秀明

「平清盛」 2012年 演=神木隆之介

「鎌倉殿の13人」 2022年 演=菅田将暉

ちなみに、どの作品にも共通することが、源義経の最期として、奥州藤原氏の4代目の当主である藤原泰衡に裏切られて奥州平泉で自害して果てる、という描かれ方をしています。

ある事実を隠すために。

私は、1966年の「源義経」は視聴したことがありませんが、「新・平家物語」と「草燃える」は、総集編で見ました。

私が視聴した、源義経が登場する大河ドラマの中では、2005年の「義経」が最も愚作と言ってよいと思います。

その作品は、主役の滝沢秀明の好感度を上げるための演出、脚本と言ってもいいほど、本来の源義経の像からは大きく乖離するもの、つまり、優等生過ぎるものであったと考えるので、愚作と言わせていただきました。

何せ、滝沢秀明が熱心な創価信者であったために、主役として抜擢され、好感度が上がるように演出されたと言っても過言でないでしょう。

しかも、石原さとみ(静御前の役)や上戸彩(義経の幼馴染の役)のような、同じように創価信者をヒロインとして起用している点からも相当な脚色があったと考えられます。

この大河ドラマの中で、最も良い作品と言えるのは、1993年の「炎立つ」でしょう。

この大河ドラマは奥州藤原氏を描いたものですが、3部構成となっていました。

1部は前九年合戦を描き、2部は後三年合戦を描き、3部は奥州藤原氏の隆盛と滅亡を描いたものでした。

当時の世間の評価として高かったのは1部と2部で、3部はそれこそ愚作と言われていました。

しかしながら私は、愚作と言われた3部こそ、比較的、真実に近い描き方が成されたのではないかと考えています。※源義経の最期については別です。

源義経の描かれ方も、優等生的ではなく、不良青年のように描かれていました。

それでも、多くの日本人が理想としている源義経のイメージは、滝沢秀明が演じたような優等生的なイメージでしょう。

だから「鎌倉殿の13人」で菅田将暉演じる源義経は、多くの日本人にとってイメージと異なるものだったのではないでしょうか。

しかし、源義経ファンには残念な報告をしなければなりませんが、源義経もまた、御多分に漏れず、列記とした悪魔崇拝者です。

結論から言いますと、源義経=チンギス・ハンであり、RAPT理論によって、その正体が暴かれました。

「源義経」がロスチャイルドの傀儡となり、その孫のフビライ・ハンが元寇を起こしました。

先ほど、「ある事実を隠すため」と書きましたが、大河ドラマをはじめ、源義経が登場する全ての時代劇ドラマは「源義経=チンギス・ハン」という事実を隠すための洗脳工作ドラマだったのです。

その事実を隠すために、「奥州平泉で死んだ」、ということにしているのです。

完全に洗脳された源義経ファンや日本史好きな人は、「源義経=チンギス・ハン」説は、絶対に受け入れ難い話でしょう。

では、彼の生涯を振り返りながら私なりに推理してみたいと思います。

源義経の幼名は「牛若丸」です。

実を言いますと、「牛」というのは、悪魔崇拝の一つのキーワードのようなものです。

サタンの一つに、「バアル」という位の高い悪魔(スサノオ)がいますが、日本語表記で「牛頭神」と書きます。

上のRAPTさんの記事にも書かれてあります。

また、昔から悪魔崇拝者にとっては、「金の子牛」の像を作って拝むこと(偶像崇拝)が、一つのステイタスだったようです。

旧約聖書の出エジプト記32章には、イスラエル民族が金の子牛の像を作って拝み、神様に反逆する様子が描かれていますし、同じく旧約聖書の列王記上12章、列王記下10章28節~31節には、イスラエルの王が金の子牛の像を作り、民衆にも拝むように指示している様子が描かれています。

これだけ見ましても、「牛」が悪魔崇拝に大きく関係していることがお分かりただけるでしょう。

源義経は、赤子の時に平清盛に預けられています。

母である常盤御前が、平清盛の愛人(正しくは側室)となったからです。

ちなみに、源義経は源義朝の子であり、源頼朝の弟(腹違い)になります。

平治の乱で、父である源義朝が平清盛に負けたために、人質のような形で平家に預けられたわけです。

従いまして、源義経は当然ながら、生まれながらの出雲族ということになります。

しかし、平清盛に預けられたことにより、秦氏として育てられていくのです。

源義経は幼少期から青年期にかけて、鞍馬寺で修行を行っています。

通説では僧となるために鞍馬寺に預けられたと言われていますが、これも大嘘です。

出雲族の人間を秦氏の人間に変えるための、英才教育のようなものだったと考えていいのではないでしょうか。

RAPTさんの上の記事によりますと、鞍馬寺は「サナト・クマーラ」という悪魔が祀られている寺のようです。

「鞍馬」という名称も、「サナト・クマーラ」からの由来でしょう。

また、この修行を行っている時の源義経の名前は、「遮那王」と名乗っていました。

この「遮那」という名称が、おおよそ秦氏と関連してきます。

おそらくは、遮那王の「遮那」は、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)から取ったものと思われますが、実は「奈良の大仏」こそが毘盧遮那仏なんだそうです。

奈良は、平城京のある場所ですし、秦氏の拠点のような地域です。

そして、奈良の大仏は「天照大神(アマテラス)」を表しているそうで、これが秦氏が拝んでいる悪魔の最高神のようです。

従いまして、「遮那王」という名も、悪魔崇拝と繋がる名前であり、秦氏とも繋がる名前でもあるわけです。

このように、源義経は幼少期を、徹底して秦氏の傀儡となるように育てられた、というわけです。

鞍馬寺の修行を終えた源義経は、奥州藤原氏の元へ向かうことになります。

次回は、源義経と奥州藤原氏が繋がる理由、奥州藤原氏の元へ行くことになった理由、秦氏の傀儡となった源義経が兄頼朝に味方した理由、等々考えてみたいと思います。

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