源義経とチンギス・ハーンは同一人物である。その4~奥州での出来事はどこまで本当なのか~

歴史

画像は、奥州藤原氏三代に渡る人物(左が藤原清衡、中央が藤原基衡、右(坊主風)が藤原秀衡)ですが、この肖像画をよく見てみると、三人とも明らかに目がおかしく描かれているのに気付きました。

果たして気のせいでしょうか。

前回までは、源義経が平家打倒に成功したにもかかわらず、源頼朝との関係が悪化した理由について推理しました。

今回は、その続きになります。

源義経の裏切りに激怒した源頼朝は、義経暗殺を企みます。

その暗殺事件が起きる前、通説によりますと、源義経は腰越まで赴き源頼朝に弁明(謝罪)しようとしたようですが、この一件は後世の創作と考えられます。

源義経と源頼朝との関係は、壇ノ浦の戦いが終わった後で、修復不可能なほど悪化したと思われます。

全ての戦争が、平家を守るための偽装工作だったことがバレてしまった源義経からすれば、もはや弁解の余地は無いでしょう。

しかも、腰越といえば現在の神奈川県鎌倉市だそうで、殺されるかもしれない状況下で、いくら何でも鎌倉には行けないでしょう。

腰越の一件を創作したということは、逆にこの期間に重要なことが起きていた可能性もあります。

話を元に戻しますが、実を言いますと、源頼朝による源義経暗殺計画とは、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)という暗殺犯に指示したそうですが、これは真実でしょう。

ウィキペディアにも彼の存在は、はっきりと書かれてあります。

土佐坊昌俊

しかし、この暗殺計画は未然に源義経の知るところとなり失敗しますが、これをきっかけに源義経は犯罪者として正式に扱われてしまうことになります。

天皇が出雲族(源頼朝)に加担し、源義経は朝敵と断罪されます。

さすがにこれにより窮地に追いやられた源義経は、再起をかけて奥州へと逃亡した、と通説では言われていますが、ここから私のとんでも推理となります。

源義経は、現在で言うところの指名手配中の犯罪者となってしまったのですが、それにより海外逃亡を図り、別人となって中国大陸の方で秦氏の棟梁として活躍した、と私は考えます。

皆さんに改めて伝えますが、源義経は元々は出雲族の人物でしたが、幼少期から秦氏の傀儡として英才教育を受けて秦氏側として活動していたことを忘れてはなりません。

源義経本人は九州辺りから朝鮮半島に渡り、日本には源義経の影武者を作り、本人になりすまして奥州へ行った、もしくは奥州に源義経の影武者を作った、というのが私の推理です。

私がこのように推理したのは、以下の年表の1185年以降の源義経の動向が一切記載されていないからです。

チンギス・ハン和暦/西暦源義経
(以下の発生年は推定)平治元年
1159年
義経の生年。源義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれる。幼名は牛若丸(遮那王丸・源九郎とも)。但し、幼名は伝説。
モンゴル中央高原でテムジン(後のチンギス・ハン)誕生。右手に“血”の塊を握っていたと伝承。父はイェスゲイ1162年1167年?詳細不明
嘉応元年
1169年
(伝)義経が鞍馬寺に預けられる。遮那王に名前を変える。但し、鞍馬寺に預けられた事のみ吾妻鏡に記載(年月は不詳)
承安4年
1174年
(伝)義経が奥州へ向う。但し、秀衡を頼って元服後奥州へ下向した事は吾妻鏡に記載(年月は不詳)
テムジン、コンギラト部族のデイ・セチェンの娘ボルテと結婚するが、メルキト部族にボルテを奪われる。以後約9~10年間行方不明。1178年治承2年頃)
治承4年
1180年
義経、黄瀬川の宿で頼朝と対面(22)。これ以降が史料上(吾妻鏡)明確な義経の足跡。これ以前は不明。
治承5年
1181年
大工の馬事件:鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引かせられた。たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件(23)。以後3年間行方不明。
寿永3年
1184年
宇治川の戦い1月20日範頼とともに宇治川の合戦に勝利し、義仲を近江粟津に敗死させる。壇ノ浦の合戦。(26)
寿永5年
1185年
義経京に凱旋するも、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず都落ちし、大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗(11月6日)。その後消息不明。(27)
テムジン、メルキト部族をプウラ・ケエルで破りボルテを奪還。1187年文治3年頃)
テムジン、一回目の「ハン」を宣言(年月不詳)後、蒙古源流では、雞の年(己酉なら1189年、一回りあとの辛酉なら1201年)にテムジンが新たにGür Qanとなった盟友ジャムカと一大決戦を行なって破れる[21]十三翼の戦い文治5年(1189年奥州衣川で義経自害。(31)
ウルジャ河の戦い金史に記載:テムジンが歴史史料に初出)1196年
義経=ジンギスカン説より

1185年の源義経の動向には、「消息不明」と書かれてあるにも関わらず、1189年の源義経の動向には「奥州で死んだ」と書かれてあります。

消息が分かっているではないか!!と突っ込みが入りそうですね。(笑)

この空白の4年間は、源義経の影武者が奥州で活動したのではないかと私は疑いました。

実際に、義経=ジンギスカン(チンギス・ハーン)説のウィキペディアにも、影武者の存在について書かれてあります。

杉目太郎行信の伝説                                            義経は頼朝に追われ奥州へ落ち延びたあと、杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)という義経そっくりの人物と遭った。奥州の藤原秀衡のもとで青年期を過ごし、日々の鍛錬を共に過ごした仲であった。泰衡は義経を呼び「蝦夷ヶ島(北海道)へ落ち延びよさもないと討つ」と打ち明け、義経も泰衡の胸中を察し高館退去を決意したが、行信は「館に人がいなければ逃亡したことは明らか」とし、当地に留まり、義経の鎧、兜などを形見に所望し、義経平泉退去の2日後、泰衡の高館で行信は身代わりとなった。当地に残る伝説。

要するに、奥州にいた杉目太郎行信が、源義経と名乗って本人になりすまし(影武者)、あたかも奥州に源義経がいるかのように振舞ったということです。

こう考えた方が、1187年~1189年に起きた奥州平泉での出来事に筋が通ってくるような気がするのです。

奥州藤原氏三代目の当主であった藤原秀衡は、出雲族(源頼朝)と手を組んだ節があります。

以下、藤原秀衡のウィキペディアから抜粋します。                             文治2年(1186年)、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた頼朝は「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけてくる。源氏の仲介なしで、直接京都と交渉してきた奥州藤原氏にとっては無礼な申し出であり、秀衡を頼朝の下位に位置づけるものであった。秀衡は直ちに鎌倉と衝突することは避け、馬と金を鎌倉へ届けた[7][注釈 6]。頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は文治3年(1187年)2月10日、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化することを覚悟で受け容れる[8]

上の記事の後半部分で、藤原秀衡は源頼朝と戦争する覚悟を決めたようですが、このことが奥州内での対立を生んだのではないかと私は考えます。

藤原秀衡は源頼朝と戦争するために、源義経が奥州にいるかのように画策し、杉目太郎行信に命じて源義経に扮するよう指示を与えたということです。

しかしながら、藤原秀衡の岳父であった藤原基成が大反対し、藤原秀衡を暗殺したのです。

1187年10月の出来事です。

では、なぜ藤原秀衡はわざわざ源義経の影武者まで立てて、源頼朝と戦争しようとしたのかと言いますと、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に平清盛と通じ、それ以来、秦氏の人物との交流があり、源義経を大陸の方へ逃亡させるに当たり、源頼朝の目を奥州に引き付けておいてほしい、と依頼されていたと考えても何ら不思議ではありません。

実を言いますと、1993年のNHK大河ドラマ「炎立つ」では、藤原基成が源義経への対応を巡り、藤原秀衡と対立し、源頼朝と内通し藤原秀衡を暗殺しようとした、という事件が描かれました。

私は、これこそが真実に近いのではないの?と思いました。

藤原基成とは、藤原秀衡の正室の父であり、政治的顧問の立場にあったとされています。

藤原基成

つまり、奥州ではそれなりに実権を握っていた人物になりますが、「炎立つ」以外の歴史ドラマにおいて、藤原基成という人物は、私の知る限りでは、まず登場しません。

ウィキペディアを見ると、辛うじて1966年(約60年前)のNHK大河ドラマ「源義経」で登場しているようですが、ほとんどの日本人に、そのドラマの中身の記憶は無いでしょう。

私は、藤原基成がけっこうな肝なのではないか、藤原秀衡の死から奥州藤原氏の滅亡までの約2年間の真実の鍵となる人物ではないか、と推理します。

この対立の構図は、藤原秀衡とその長男である藤原国衡が手を組み、藤原基成と嫡男である藤原泰衡が手を組んだと考えます。

実を言いますと、藤原基成にとって四代目当主の藤原泰衡は孫になりますが、藤原国衡と藤原泰衡の兄弟仲は悪かったと言われています。

藤原秀衡暗殺前に、藤原基成は藤原国衡を取り込んだと思われます。

藤原国衡は藤原秀衡の長男でしたが、庶子として扱われたことに普段から不満を抱いていたに違いなく、藤原基成は藤原秀衡の正室だった自分の娘(藤原泰衡の母)を藤原国衡に娶らせ、嫡男で次男であった藤原泰衡と義理の親子関係にして、藤原国衡を懐柔したものと推理します。

この一件は、通常では考えられない対応で、いかにも悪魔崇拝者らしい考え方とも言えますが、この話は通説では藤原秀衡が死ぬ直前に段取りしたことと言われていますが、そうではなく、藤原基成が画策し、藤原国衡を懐柔するためだったとも考えられなくはありません。

本来であれば、藤原泰衡の家臣格となるはずだった藤原国衡に対して、藤原基成は一定の権力を与えたということですし、場合によっては藤原国衡の方が藤原泰衡より権力を行使できることにもなります。

更に、藤原泰衡には異母弟として藤原忠衡がいましたが、父である藤原秀衡が暗殺されたことを後日知り反抗したため、更には藤原基成にとっても赤の他人だったため、殺害したのではないかと私は考えます。

藤原基成は戦争を回避することで、奥州における自分の地位の確保に必死だったとも考えられます。

藤原秀衡の死の4ヶ月後の1188年2月、源義経が奥州に潜伏中であることが源頼朝に発覚したようですが、藤原秀衡が死ぬ直前に、既に源頼朝に発覚しているという話すらあります。

どっちが本当なんだという話です。

私の推理としては、源頼朝に発覚したために藤原基成が藤原秀衡を殺し、源頼朝に対して謀反の意思はなく、源義経も奥州から追い払った、ということにしたのではないでしょうか。

ところが、鎌倉から密かに雑色が派遣され、杉目太郎行信を見たその雑色が源義経本人と思い、「源義経が奥州にいる」と源頼朝に報告をした可能性があります。

それで源頼朝は源義経の身柄を引き渡すよう、執拗に藤原泰衡に要求したのです。

はじめから奥州には源義経はいなかったので、藤原泰衡や藤原基成はその要求に対して適当に対応していたと思いますが、源頼朝が大軍を差し向けると脅し、やむを得ず杉目太郎行信の首を差し出したということでしょう。       

実のところ、その首も首実検まで約40日も費やしているそうで、要するに、源義経本人の首ではないため、腐敗させてその首が誰だか判別できなくしたということです。

源義経の首が届いた直後に、命令違反(勝手に源義経を殺害した)として源頼朝は奥州合戦を開始します。

源頼朝としては、どうあっても奥州藤原氏を滅亡させ、奥州の覇権を奪いたかったのでしょう。

だから、源義経は源頼朝にとって奥州を潰す格好の口実だったと考えられます。

もともと奥州は出雲族の安倍氏によって治められていましたが、前九年合戦と後三年合戦で、藤原氏が乗っ取ったわけですから、出雲族である源頼朝は、その恨みを晴らすための戦争だったとも考えられます。

奥州にとって源頼朝の出陣は、おそらく想定外だったため、奥州軍は鎌倉軍にあっけなく敗れてしまいます。

藤原国衡は戦死、藤原泰衡は暗殺死(家臣の裏切り)、藤原基成は捕縛されました。

藤原基成が殺されなかったのは、やはりこの人物が当時も重要な鍵を握っていたのではないでしょうか。

これにより、奥州藤原氏(秦氏と藤原氏)による奥州の支配体制は終わり、源頼朝(出雲族)の支配体制になりましたが、この戦争の直後、奥州では源義経や藤原秀衡の子孫が生きているかのように装った反乱が起きているようですから、私の今回の推理も有り得なくもないと思いますが、どうでしょうか。

以上が、源義経が日本において活動していた時のことを私なりに推理してみました。

ちなみに、この時代の推理はあまりにも難しく、相当に時間を費やしました。

実は2020年頃、源義経=チンギス・ハーン説のRAPT理論の動画が作成されていたのですが、残念ながら作成者が、カルト(イルミナティ)と繋がっていた工作員だったため、今では削除されてしまいました。

それが残っていたならば、と思えてなりません。

これまでの記事の内容は、源義経とチンギス・ハーンが同一人物だと立証しているわけではありませんが、起きた出来事を同一人物であるという前提で推理したに過ぎませんので、推理小説的感覚で読んでいただくと有難いです。

ただ、日本史を解く上で、日本国内の情勢だけでは解くことが出来ず、世界規模の視点から当たる必要はあります。

出雲族(青勢力)、秦氏(赤勢力)、李家(黄勢力)、藤原氏(緑勢力)のイルミナティ四大勢力は古くから世界中に散らばっているため、国単位で当たると全く見えなくなるのです。

源義経が活躍した時代も、もっと世界的な視点から解き明かせば、もっと真実が解明できると思います。

次回は、義経とチンギス・ハーンが同一人物である様々な話を、ウィキペディアからご紹介したいと思います。

ウィキペディアの内容は、証拠といったレベルになっていると私は感じるのですが。

ウィキペディアの内容は、あまりにも量が多く、興味のある人にとってはいいですが、興味のない多くの人が読むのは鬱陶しく感じられると思いますので、一部抜粋してご紹介したいと思います。

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