先日、ヤフー知恵袋で回答した私の投稿内容が、ベストアンサーに選ばれました。
その内容は以下の投稿です。
徳川家光が家康と春日局の子では、と言われるのはなぜでしょうか。
一般的には、徳川家光は徳川秀忠と江(ごう)との間に生まれた嫡男だと言われています。
しかしながら一方で、ヤフー知恵袋で質問した方がいらっしゃったように、「徳川家光の母は春日局ではないか」という話も世の中には出回っています。
そこで私は、徳川家光は徳川家康と春日局との間に生まれた子供であり、かつ、春日局の父は明智光秀なのではないか、と考えました。
そして、その根拠となるようなものはないかと探りましたところ、見つけることが出来ました。
このサイトは、歴史小説のサイトになっていて、見るためにはアカウント設定が必要なようです。
まだ私は読んでいませんが、これは読んでみる価値があるかもしれませんね。
早速ですが、サイト内にある「あらすじ」を、ご紹介したいと思います。
~転載ここから~
1579年(天正7年)明智光秀の若き側室「藍屋(あいや)」は、丹波・亀山城で後の春日局となる「幸(さち)」を産む。「藍屋」は、明智家、進土家とともに美濃守護の土岐一族の支流に当たる原家の原仙仁(のりひと)の娘である。
本能寺の変後の山崎の合戦で敗れた光秀は割腹して死亡。その報を知った明智秀満は、坂本上炎上の前に、明智家と斎藤利三らの家臣の一族郎党を全国に逃避・散在させた。
藍屋と幸の母子は、斎藤利三の妻「安(あん)」とその子の利宗と二人の娘(「福」と「神戸」)とともに、「安」の実家である美濃の豪族・稲葉一鉄に保護される。曽根の華渓寺で養育される中、利三の娘の「福」が疱瘡で病死すると、その祖父の一鉄の機転で、光秀の娘である「幸」の身の安全のため、幸はその後、福と名乗ることになった。
秀吉の天下の中、幸は、7歳の時、正式に一鉄の長男(庶兄長子)の稲葉重通の養女となる。そして17歳で、稲葉正成の後添え(継室)となる。一男(正勝)を産んだ幸は20歳の時に離縁し、稲葉家の跡取りの稲葉貞通(嫡男)を頼るが、貞通が死去すると大阪城や伏見城で奥女中を務める。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が伏見城で政務をとる中、幸は1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった家康のお手がつき(家康62歳、幸24歳)、後の三代将軍となる家光を静岡の焼津で出産(鷹匠・良知家で匿われ養生)する。その後、江戸城二の丸に入り幸は乳母として家光を養育する。
~転載ここまで~
このように、あらすじを読んだだけでも、非常に興味深い話が書かれてあり、かつ、詳細に書かれてあるところを見ると、とても作り話には思えませんが、皆さんはどのように感じるでしょうか。
私が、徳川家光や春日局について疑問を抱き始めたのは、勿論、RAPT理論に出会った後でしたが、正直なところ、幾つもの不可解な点があったからです。
①徳川家光は徳川秀忠の嫡男のはずなのに、父である秀忠の幼名が与えられておらず、徳川家康の幼名である「竹千代」が与えられているという不自然さ。 ※秀忠の幼名は長丸あるいは長松でした。
②徳川家光の名前である「家光」に、父である秀忠の偏諱(かたいみな)が一切与えられていないという不自然さ。 ※それどころか、家光の「光」は明智光秀の「光」だという話さえ出回っています。
③春日局は斎藤利三(明智光秀の重臣)の娘と言われているが、謀反人ゆかりの人物が江戸幕府内部で重要な立場に就くという不自然さ。
④春日局は、竹千代(後の家光)の乳母募集の求人広告に応募し採用された、いわば現代風に登用されたという不自然さ。
⑤そもそも、乳母を募集する求人広告が、当時に存在していたのかという疑問。 ※彼らは悪魔崇拝者でありユダヤ人であることを考えますと、どこの馬の骨とも分からない人間を募ることは有り得ないと思われます。
⑥春日局は、それこそ、将軍の御台所(現代風で言えばトップレディ)以上の権力を握っていた感じさえ漂う不自然さ。
要するに、不自然さが多すぎると、かねてより私は思っていました。
従いまして、 徳川家光が徳川家康と春日局との間に産まれた子である 春日局は明智光秀の実の娘である 明智光秀と天海は同一人物である 以上のことを認めると、私が感じた不自然さに対して全て、筋が通ってくるわけです。
しかも、「光秀の娘春日局」で紹介されている「あらすじ」の中にありますように、「「幸」が「福」になった」、と書かれてありますが、これがまさに、イルミナティの常套手段なわけです。
つまり、彼ら悪魔崇拝者は、自分の素性を隠すため、関連する血筋の養子になったり、別人として活動したりといったことを行い、出自が分からなくなるように細工をするわけです。
これは、当時から、更には古代からやっていたことなのでしょう。
そういったことを理解しておくと、「光秀の娘春日局」で紹介されている「あらすじ」の内容の信憑性も高いと考えられるわけです。
もっとも、この歴史小説では、明智光秀は死んだことになっているように感じますが、当時も、明智光秀は死んだことになっていたはずです。
山崎の合戦後の羽柴秀吉は、執拗に明智の残党狩りを行っていた、という話が残されています。
だからこそ、明智光秀の娘だと知られるとまずかった、ということでしょうし、生存していた明智光秀は別人として活動するしかなかったということでしょう。
話を、私が挙げた①~⑥について戻して説明したいと思います。
まず、①と②についてですが、徳川秀忠のウィキペディアを見てみますと、幼名が長丸、又は、長松となっています。
更に、秀忠には庶子として長男に徳川長丸という人物がいますが、しっかりと秀忠の幼名が与えられていますね。
こういうのを根拠というのです。
更に、秀忠には家光の弟として徳川忠長と保科正之(ほしな まさゆき)がいますが、これらも分かり易いですね。
忠長については、秀忠の偏諱である「忠」がしっかりと使用されていますし、幼名も国松と言い、秀忠の幼名である長松の「松」の字が与えられています。 ※他にも幼名として門松丸、北丸殿とも書いてあり、しっかりと「丸」が使用されています。
保科正之については、その幼名を調べてみますと、幸松丸といい、「松」だけでなく「丸」の字も使用されています。
このように、家光以外の子供には自分の幼名や偏諱を与えているのに、三代将軍として据えるはずの後継者とした子供に、なぜに徳川秀忠は自分の幼名だけでなく、偏諱さえ与えなかったのでしょうか。
やはり、自身の子供ではなかったから、と考える方が自然ではないでしょうか。
ちなみに、徳川秀忠は豊臣秀吉時代に人質として差し出されています。
つまり、正式には後継者として家康から認められていなかった、とも考えられるわけです。
では、なぜ秀忠が二代将軍として据えられたか、それは、家康の実子である家光を秀忠の養子として三代将軍にするという約束のもとで成されたことではないか、と私は推理しました。
要するに、家康はそれだけ春日局を溺愛していた可能性があります。
家康としては、本当は家光を後継者にしたかったのですが、自分が高齢でもあり、家光もあまりにも幼過ぎるため、一旦秀忠に後を譲ったのでしょう。
1603年に家康は征夷大将軍になっていますが、2年後の1605年には秀忠に征夷大将軍を譲っていますが、こういった工作があったためとも考えられます。
実際に、家光が産まれたのは1604年ですから。
この1603年から1605年の2年間には、重大な秘密が隠されていると思えてなりません。
この工作に、当然ながら明智光秀が絡んでいたことは明かでしょう。
南光坊天海が絡んでいたということは、そういうことになります。
ちなみに③~⑥については、家光が家康と春日局の子である、春日局が明智光秀の娘である、明智光秀と南光坊天海は同一人物である、ということを念頭に置けば、全て説明できます。
私は、織田信長が斎藤道三の実子である可能性が高いことを知るに至りましたが、今回の件を通して、新たに織田信長と明智光秀と徳川家康の関係が推理できるかもしれません。
徳川家康も、本当に松平家の人物なのか、ということも疑ってみる余地はあるかもしれませんね。
もしも、私の記事を読まれた方で、この記事に関することだけでなく、重要な情報をお持ちの方は、是非コメント欄に記入していただきたいと思います。
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