2025年2月を迎えて、私が信仰を持ってから丸3年が経過しました。
祝福されているのか裁かれているのか、考えることも多くありますが、実は私の願いはことごとく叶えられているということを感じています。
と言いましても、信仰生活を行う上での小さな願いです。
大きな願いは、当然ですが簡単には叶いません。
私自身の努力も必要ですし、そもそも、数年では叶えられるものではないでしょう。
もっとも、大きな願いの実現も私次第で早くも遅くもなるのですが。
今回は小さな願いに関するお話になりますが、もしかしたら神様から裁かれているのではないかと考えたこともありましたが、私のささやかな願いがかなり叶えられているということは、決して裁かれているわけではないと感じています。
それに、心の平安は相変わらず保つことが出来ていますし、特別に良いことが起きなくても喜びが溢れて来ることもしばしばです。
そこで今回は、「私の叶えられている願い=祝福」と、その一方で、「なかなか叶えられない願い=練達」についてお話ししたいと思います。
「私の叶えられている願い」というのは、その多くが我社に関することです。
昨年のお盆過ぎから我社の業績が上向き傾向になったのです。
業績向上の要因は、同業他社からの受注によるものでした。
その同業他社というのは、実は約5年前、我社のことを誹謗中傷したことがある相手でした。
その詳細につきましては、「私の身近で起きた神様の裁きです。(推測です。)」の記事をご覧ください。
我社が働き手を募っているということに対して危機感を抱いた相手が、我社のことを「赤字経営だから危ない」などと言って、働き手が我社に来ないように仕向けたことがあったのです。
その相手から、昨年の4月以降、頻繁に連絡が来るようになりました。
始めのうちは、サタンによるものではないか、と疑った程でした。
つまり、何かの罠ではないか、と考えたのです。
実を言いますと、その相手から連絡があった昨年の4月辺りは、我社の今後の受注に関して少々懸念していた時期でもありました。
受注の確保ができるかどうか、という問題に直面していたのです。
普通であれば、自分のことを誹謗中傷した相手と、再び関わろうとは思わないでしょう。
多くの人達が、仮にそういった相手から連絡が来ても、無視をするなりして、極力相手にしないようにすることでしょう。
しかしながら、キリスト教の信仰を持っている私は、考え方が違います。
即ち、「そういった相手であろうとも、もしかすると神様が敢えて繋げようと為さっているかもしれない。」と考えるわけです。
サタンの罠である可能性も十分考えられる中で、神様の御導きの可能性も考えた、ということです。
そこで、その相手と関わることにしたのです。
もしもサタンの罠であるならば、その相手と関わることで、災いや上手くいかないことが多々生じるなどの悪いことばかりが起きるはずです。
ところが実際は、その相手と関わって大正解だったのです。
相手も、我社を誹謗中傷したことが嘘のように、我社に対して物凄く配慮してくれました。
極力、我社にとって都合が悪くならないようにと、様々に配慮してくれたのです。
しかも、その相手と関わったことで、我社の売上も順調に伸びて、4人しか働き手のいない会社ですが2025年1月時点で、十分な利益が生じているのです。
警備業界において、我社の様な従業員が少ない会社で、しかも資金力が乏しい中で7年近くも運営し、尚且つ、利益まで生まれるというのは、考えられないことなのです。
私の願いの一つでもあった我社の存続も、現時点で叶えられていることになります。
もっとも、神様が仰せになるならば、会社はいつでも畳むつもりでいますので、業績の良し悪しにいちいち一喜一憂することはなくなりました。
その同業他社のお陰で、私自身も週に3回くらいは現場で従事するのが理想的だと考えていましたが、それも現時点(昨年のお盆以降)で叶えられています。
しかも、現場で従事したからといって信仰生活がそれほど犠牲になっている感じも受けません。
従事する現場が、9時間拘束(8時~17時)されることも少ないので、私にとっては大変助かっています。
1時間もしないうちに終了する現場も結構ありますし、2,3時間程度で終了する現場も多いお陰で、聖書を読んだり、RAPTさんの御言葉を聞いたり、賛美をしたり、祈りをしたり、そういったことが出来なくなるということが全くありません。
もっとも、伝道はなかなか出来ていませんが。
また、私が関わりたくないと思っていた取引先とも疎遠となりました。
一人の従業員を退職させたことで、その取引先との関係が、ほぼ途切れた状態になったのです。
その取引先は、私にとって実のところ、大嫌いな取引先だったのです。
現場においては9時間拘束(8時~17時)が当たり前、早く終了しそうな時も時間稼ぎを行う(つまり17時に帳尻を合わせるような仕事ぶりになる)、残業代を払おうとしない、年度の始め(4月~お盆くらい)は仕事が極めて少ない、時に無理難題(物理的に不可能なこと)を平気で依頼してくる、親しくしてくれているようで裏を感じる、などなど、挙げれば切りがないほど、私にとっても従業員達にとっても、仕事環境が悪い取引先でした。
こういった有様をサタン的だと表現します。(笑)
私個人としては、この取引先とは20年近くも接してきた相手ではありましたが、好きで接していたわけでは無く、むしろ、嫌々接してきました。
2018年に私が独立したことにより、その取引先と疎遠になったのですが、よりによってその取引先と親しくしていた警備員が我社の従業員として2020年にやって来たことにより、その取引先と再び繋がることになったのです。
2020年当時の私は、我社の従業員を増やすことに躍起になっていましたから、仕方のないことだと割り切ろうと思っていましたが、はっきり言いますが、嫌で嫌で堪りませんでした。(笑)
しかしながら、2023年10月にその従業員を退職させたことにより、その取引先と疎遠となり、今ではほとんど連絡が来なくなりました。
これも、私の願いの一つ(嫌な取引先と縁が切れること)が叶えられていることになります。
ただ、詳細は割愛させていただきますが、実はこの取引先と関わったことで、私個人にとって益となったこともありましたが、それこそ神様の御計らいだと今でも信じています。
また、体調面も常に良好で、信仰生活においても我社の仕事においても、全くと言っていいほど支障を来すことがありません。
我社の従業員についても、しっかりと守られていると感じています。
実際に、体調不良や交通事故などによって、従業員が仕事を欠勤する機会は皆無といってもいい位、トラブルが全く発生しません。
このことも、普通では考えられないことだと感じます。
いくら人数が少ない会社だとしても、従業員に体調不良に限らず、あらゆる欠勤事由が、一年の間に何度か起き得ることでしょう。
これも、私の願いの一つ(私と従業員の無事)が叶えられていることになります。
私自身も現場で従事する機会が、例年に比べますと大幅に増えていますが、以前は多少なりとも嫌な思いをすることも少なくなかったのですが、最近(昨年のお盆以降)では記憶に残らないほどに嫌なことが起きる頻度が激減しました。
現場によっては、通行止めなどにより、うまく対応できるかどうか、苦情等が生じないだろうか、と心配になることはありますが、全てにおいて取り越し苦労と言いますか、心配するほどのことは一切起きていません。
現場によっては、感じの悪い作業員(例えば挨拶すらできない人)も結構いるのですが、そこまで気になりません。
以前でしたら、「なんだこいつ!」と思って1日中気になったり、再び関わってしまうことが気になったりしていました。
現場においても「これくらいでいいか」と思うような場面においても、「いや、念のためこうしよう」と考えて実行すると、「そのようにしておいて良かった」、と思うことが沢山ありましたし、予想以上に相手に喜ばれたり感謝されたりする機会も結構ありました。
もしかしたら、霊感を受けて行動していたのかもしれません。
これも、私の願いの一つ(現場が円滑に行われること)が叶えられていることになります。
つまり、我社に関することが、沢山叶えられているのです。
こうも常に上手くいく、ということは通常有り得ないことだと思いますが、昨年のお盆以降は、本当に思う通りと言いますか、事態が悪い方へ向かうということが一切ありません。
勿論、その時々で嫌な思いをすることはありますが、気になるレベルに無いということです。
嫌な思いをしたり嫌なことが起きると、些細な事であっても引きずってしまう人が多いと思います。
本当に、神様のお陰としか言いようがありません。
従いまして、今度は私が神様に御恩返しのために、喜ばれることをして差し上げなければなりません。
つまり、「伝道=人々の霊肉魂の救い」のために、私にできること、神様が私に望んでいることを最大限行うことです。
ところが一方で、私の小さな願いのうちで、全然叶えられない願いがあります。
詳細は割愛しますが、現実に起きている出来事は、その願いを断ち切らなければならない、と思えるような出来事が起きているのです。
にもかかわらず、その願いを断ち切ろうと決心しますと、恵みが失われる感覚に苛まれるのです。
更には、サタンさえも群がってきている様な感覚に陥るのです。
これは、数年前からずっとなのです。
明け方の祈りの中では、神様からその願いを捨てるように促されている感じは無く、むしろ、願い続けることが御心であるかのようにさえ感じるのです。
実際に、その願いを抱き続けることによって、神様から裁かれている(神様に叱られている)感じは全くありません。
それなのにその願いは全く叶えられそうな感じも無く、むしろ、叶えられない方向へ事態が動いているようにしか感じないのです。
その願いを抱く一方で、その願いに反するような行動を取っている私がいるのも事実で、そちらの方を神様が咎められている可能性を感じるのです。
神様としては私のその願いを叶えようとされているけれども、サタンが文句を言って妨害している可能性が考えられるわけです。
その私の抱いている願いに反するようなサタンの誘惑があるのも事実です。
そして、その願いに反するようなこととは、我社に起きていることとも関連性があるのです。
これは練達だろうと考えているのですが、現時点で叶えてほしい願いの中で唯一、その願いが叶えられないわけです。
やはり、願いが叶えられないというのは苦しさがあるのも事実です。
その願いを祈りの中で神様に話していると、あっという間に1時間近くは経過しますから、その願いは神様の御心のうちである可能性は十分考えられるわけです。
RAPTさんも「小説家になって多くの人を伝道したいという願いを持ち続けていたけれども、なかなか叶えられなかった」ということを何度もお話ししてくださいます。
それと比べるのは見当違いも甚だしいと叱られそうですが、その私の願いも実を言いますと、単に自分勝手な願いというわけでは無く、その願いが叶うことにより、自分自身の救いが完成に近づくことになり、神様の御心を成せる条件が整うことにも成り得るのです。
人々を救っていくには、まずは自分が救われていないと話になりませんからね。
もしもそうだとすれば、サタンが激しく妨害し、文句を言うのも道理なわけです。
ちなみに、その願いが叶えられないからといって、私が落胆したり信仰が揺らぐということがあるかと言いますと、一時的にそのようになることはあっても、すぐに回復できています。
もしもこのことが練達であれば、以下のような聖句が必ず私にも実現するはずです。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章3~4節 新共同訳
また、こうもあります。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 新約聖書 コリントの信徒への手紙一 10章13節 新共同訳
更に、こうもあります。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章11節 新共同訳
勿論、その願いが正しいことなのかどうか、これからも神様に伺い続けなければなりません。
ただ一つ言えることは、そのほかの私の小さな願いはほとんど叶えられているので、決して神様から裁かれているために、その願いが叶えられていないわけではないということです。
やはり、練達の一環と考えるしかないように思えるわけです。
「あなたにとって今一番叶えてほしい願いが叶えられないとしても、私のことを信じて愛するのか。」と神様から常に問いかけられているのかもしれません。
逆に「そのような願いを抱くのは無駄だが、あなたが今抱えている欲望を叶えるからこっちへ来い。」とサタンから唆されているのかもしれません。
たとえ、今一番叶えてほしいことが実現しなかったとしても、私が神様から離れる選択肢はありません。
この願いが叶えられなかったとしても、神様がもっと良い願いを叶えて下さる、そう信じているからです。
それが信仰だからです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章1節 新共同訳
まさに今、私が書いたことそのものではありませんか。
「望んでいる事柄=なかなか叶えられない願い」であり、「見えない事実=その願いがどのような形であれ叶えられること」です。
現在の私は、収入こそ低くなりましたが、それ以外はほとんどの願いが叶えられている状況です。
もっとも収入なんて、生活に困らない程度あれば十分です。
老後の心配ですか?
国や政府といった人間に頼っていれば心配は尽きないでしょうが、神様に頼る限りは何も心配いりません。
これからも、もっと厳しい練達がやって来るものと思われます。
人間サタンと言われる悪人達との戦い、神様から与えられたものまで捨てなければならなくなること、などです。
サタンの世界で得たものを捨てることなど大した問題ではありませんが、神様から頂いたものを捨てるように促された時に、果たして私は捨てられるのかどうか、現時点では自信がありません。
神様の御心を成していくためには、強靭な精神力が必要となります。
その時は、私を大使徒として神様が期待しているのだと思い、喜んで立ち向かう決心でいます。
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