これは、私が独立する前にお世話になった会社で役員をしていた時のお話です。
その会社には人事考課制度があり、定期的に従業員の給与の査定を行っていました。
その会社は2008年に設立され、最初の3年間は副社長が主に経営を行っていましたが、不正行為により失脚し、2011年の4月から私が舵取りを任されるようになりました。
※「3年」というのはキーワードになります。
そして、1年半後の2012年11月に、それまでの実績が認められ、役員に就任しました。
その時に、人事考課制度を大幅に刷新しまして、その中に、自分自身を戒める規則も定めました。
つまり、評価する側が全て正しいとは限らないし、むしろ、評価する側こそ全て正しくあるように努めなければならないと考えたからです。
従業員に指導する内容は、私自身が率先して実践しなければならない、と考えました。
人は、人の上に立って指導者的立場になった時、自分のことは棚に上げてその立場を悪用し、他人を注意したり評価したりします。
いわゆる、高慢になり偉そうに振舞う、ということですね。
本当は、逆に謙虚になる必要があるのです。
聖書にも以下のように書かれてあります。
あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。(ルカによる福音書22章26節 新共同訳)
当時、役員として自分を戒めた内容をご紹介します。
今振り返ってみましても、自分が考えたとは思えないような戒めを考えていました。
①会社を守る方法手段、従業員を守る方法手段を選択しなければならない。
②常に感謝の気持ちを持ち、慢心してはならない。
③代表者の意図・意向を十分に把握し、その実現に最大限の努力をしなければならない。
④気付かない、気付けないことは、最大の悪と捉えなければならない。
⑤何事にも継続することを旨とし、断念する前にあらゆる方法手段を考え、努力を怠ってはならない。
⑥全ての従業員に対して、常に平等性公平性を認識しなければならない。
⑦代表者への批判は、即退職に繋がる重大過失行為と認識しなければならない。
⑧自己の利益よりも他者の利益を優先しなければならない。
⑨人を力や立場で統率せず、心で統率できる人間力を身に付けなければならない。
⑩従業員を家族同様に思い、その健康を我が喜びとし、会社の環境改善に最大限の努力をしなければならない。
⑪情ではなく、理を優先する判断力・決断力を持たなければならない。
⑫一度発した言葉は、二度と飲み込めないことを認識しなければならない。
今の私も、これらのことを肝に銘じてやらなけらばいけないと改めて感じました。
ちなみに、以上のことは、驚くことに、神様の教え、聖書の教えにも通じるものがあります。
②では、高慢になるな、という教えです。
③では、神様の御心を十分に汲み取り、神様の御心の実現に最大限の努力をしなさい、と言い換え出来ます。
④では、神様の存在に気付かない、気付けないと言い換えできます。
神様の存在に気付けなければ、当然ながら救いを失い、悪から離れられなくなりますから、そういった意味では最大の悪と言えるでしょう。
⑤では、信仰生活において、聖書を沢山読むことや、御言葉を沢山聞いて悟ることや、大いに感謝することや、伝道することを継続して行うことが大切で、上手くいかない、願いが叶えられないからと言って諦めることなく、努力することが肝心だと、言い換え出来ます。
⑥、⑨、⑩では、隣人愛(二番目に重要な掟)に繋がる部分だと感じます。
⑦、⑧では、神様への愛(最も重要な掟)に繋がる部分だと感じます。
「代表者への批判」を「神様への批判」と言い換え出来ますし、「即退職」は「即地獄」と言い換え出来ますし、「他者の利益」を「神様の利益」と言い換え出来ます。
⑪では、RAPTさんが御言葉の中でよく仰せになっています。
感情は罪であり、真理(神様の御言葉、世の中の真実)で武装しなさい、と。
⑫についても、聖書にはっきりと書かれてあります。
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。(マタイによる福音書15章17節~20節 新共同訳)
このように、全てにおいて神様の教えに通じるわけですから、偶然ではありません。
私は2012年11月から2015年6月まで、その会社で役員をしていましたが、実際にその間は、目立ったトラブルも無く、人間関係も良好に築くことができ、精神的にも健やかで、充実した日々を送っていました。
つまり、神様の教えに通じる形で行動していたために、結果が良い方へ向かうことが多かった、ということです。
※勿論、嫌なことが全く起きなかったということはありません。
ちなみに、役員を辞めた事情については、私の身勝手さが占める部分が大きかったと感じます。
※勿論、役員を辞めた最大の理由は、社長の不正行為が原因です。
役員を辞めた後もその会社に残りましたが、その身勝手さが祟(たた)り、辛い思いをしたこともあり、悔しい思いをしたこともあり、やはり結果が悪い方へ向かうことが増えました。
当時の役員の辞任は、神様の御心に適っていなかったのかもしれません。
あるいは、役員辞任後も会社に残ったことが、神様の御心に適っていなかったのかもしれません。
そして、役員辞任から3年後の2018年4月に独立を果たすことになるのですが、冒頭でも書きましたが、神様の主管圏におきましては、3年というのが一つの目安になっています。
だから、独立したことは、神様の御心に適っているのではないかと今では思っています。
もっと考えますと、その会社で舵取りを任されてからその立場を辞すまでに4年間(2011年4月~2015年6月)あります。
ですから、2015年6月の段階で、その会社を見限り、独立などの別の道を探るべきだったのかもしれません。
そのように考える理由は、以下になります。
「3年」と「4年」につきまして、聖書の中に記述がありますので、御紹介して記事の終わりとさせていただきます。
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁(えんてい)に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカによる福音書13章6節~9節 新共同訳)
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