本能寺の変の犯人は、明智光秀ではなくイエズス会である!?(その2)

歴史

前回の記事で、本能寺の変は織田信長信忠毒殺事件と書きました。

その続きです。

6月2日の明け方、明智光秀が軍勢と共に本能寺に到着しました。

そこで、変わり果てた織田信長と信忠を発見したのでしょうが、もしかすると、首無し死体だったかもしれません。

主君が暗殺されたと知った明智光秀は、妙覚寺に赴き、織田信忠の軍勢(織田本軍)と合流し、堺で待機していた徳川家康とも合流したものと思われます。

そして、京都周辺に留まり警護を固め、朝廷と接触していた可能性が高いと思われます。

実際に通説でも、明智光秀は本能寺の変の後、朝廷と関わっています。

そのような中、羽柴秀吉が中国地方から京都へ進軍中で、間近に迫っているとの知らせが届いたのでしょう。

この羽柴秀吉の裏切りは、明智光秀と徳川家康にとっては、想定外だったと思われます。

この羽柴秀吉の進軍は、中国大返しと言われていますが、このカラクリは、毛利氏やイエズス会と組んで織田信長暗殺に加担した羽柴秀吉が、あらかじめ京都の近く(姫路辺りか、もっと近く)まで進軍していて、暗殺成功後、すぐに京都へ向かう段取りになっていた、と推理します。

つまり、明智光秀と徳川家康を討ち取る算段だった(両者は、イエズス会の敵だった。)、と考えられます。

ドラマのように、雪崩打って大返しを行ったというのは、非現実的ですし、人間には不可能ですし、完全なフィクションと考えざるを得ません。

車などで移動したというなら話は別ですが。

しかも、あれだけ走りづめた(距離にして数百キロだと思います。)軍勢が、山崎の戦い(本能寺の変から約10日後の、羽柴秀吉VS明智光秀の戦い)で戦争をできるだけの体力があったとは思えません。

それなのに山崎の戦いは、羽柴秀吉の圧勝、明智光秀の惨敗だったと伝えられています。

マラソンの距離と比較にならない距離を走らされた軍勢(羽柴軍)が圧勝で、体力の有り余っている軍勢(明智軍)が惨敗というのは、普通に考えて、おかしいと感じませんか?

想定外の羽柴秀吉の進軍に対して、明智光秀は徳川家康と織田本軍を直ちに逃がした、と思われます。

それが通説で言われている、徳川家康の伊賀越えの真実、でしょう。

様々なドラマで描かれているように、必死の思いで引き上げたものと思われます。

明智徳川連合軍の数も相当数だったとは思いますが、主君を失い、戦意喪失だったと考えられますから、羽柴軍の勢いには勝てなかったでしょう。

従って、徳川家康と織田本軍を逃がすため、明智光秀は殿(しんがり)役を務めたと考えます。

それが山崎の戦いだったと私は推理します。

つまり、明智光秀が徳川家康と織田本軍を逃がすため、殿(しんがり)を務めて、山崎の地で羽柴秀吉の軍勢を食い止めた戦争が、山崎の戦いだったという推理です。

そう考えると、羽柴秀吉の圧勝で明智光秀の惨敗の構図が納得できると思うのです。

徳川家康は駿河へ戻り、織田本軍は安土城に向かったか、もしくは、徳川家康と共にしたかのいずれかだとは思いますが、安土城は羽柴軍によって占拠されていた可能性も否定できません。

ちなみに、山崎の戦いで明智光秀は死んだことになっていますが、おそらくは生き延びているでしょう。

影武者を立てて明智光秀は死んだということにして、本人は徳川家康のもとに逃げて行ったと考えます。

私は「明智光秀=天海」が真実だと思っていますので、そのように考えます。

ところで、羽柴秀吉にとって明智光秀は、相当に憎らしい相手だった可能性もあります。

山崎の戦い後、執拗に明智の残党狩りを行ったようで、徹底的に明智関係者を処罰する動きを取っていたようです。

犯罪者でもないのに、です。

秀吉の光秀に対する感情が憎しみだ、と私が考えた根拠の一つとして、本能寺の変の後に羽柴秀吉が書かせた書物である「惟任(これとう)退治記」が挙げられます。

「惟任(これとう)」とは明智光秀のことで、更に「退治」と表現し、本能寺の変は、明智光秀の織田信長に対する謀反であり、謀反人である明智光秀を自分が退治した、というシナリオを作り上げたのです。

本能寺の変の直後に安土城が焼失した、という話になっていて、明智光秀が安土城を焼いた、となっていますが、羽柴秀吉によって焼かれた可能性も否定できません。

ちなみに、山崎の戦いの後、清須会議というものが行われていますが、これも作り話でしょう。

確か、清須会議という映画まで作って、実話であるかのように洗脳していますよね。

織田家の主だった重臣が集まって会議をしていますが、時代は戦国真っ只中です。

戦争を中断、あるいは放棄して、悠長に集まって話し合いをする余裕など、どこにあるでしょうか。

また、敵がそれ(戦の中断など)を承諾するわけがなく、むしろ、一斉に織田勢を潰しにかかるでしょう。

ところで、織田信長について、世間では大きな誤解を受けています。

織田信長が天下統一目前で本能寺に倒れた、と伝えられていますが、とんでもありません。

織田信長が死んだ1582年当時、天下統一目前どころか、まだまだ前途多難といった状況でした。

実際に、中国地方で毛利氏と戦い、四国地方で長曾我部氏と戦い、九州地方の平定もできていません。

更に、北陸地方で上杉氏と戦い、関東地方では北条氏と和を結んでいたようですが、東北地方なども平定できていない状況でした。

従いまして、織田信長は、どこからどう見ても、天下人では有り得ませんでした。

あくまで、日本の中心地である京都(これが当時の天下の地だったのでしょう。)を占拠したに過ぎませんでした。

日本の歴史は殊更、織田信長を持ち上げていますが、豊臣秀吉や徳川家康と比べると、何も達成できていないと言えるレベルの人物です。(室町幕府を滅ぼした位でしょうか。)

あくまで、豊臣秀吉や徳川家康が台頭するきっかけの人物でしかなく、その両者の存在は、織田信長無くして有り得なかったから、大きく持ち上げているだけでしょう。

話は変わりますが、この時期の出来事について、鍵を握っているかもしれない人物をご紹介させていただきます。

その一人が細川藤孝(細川幽斎)という人物です。

どこまで重要な人物かは私にも分かりませんが、もしかすると、この時代の真実のカギを握る人物の一人かもしれませんので、御紹介しておきます。

細川藤孝は、足利義昭(室町幕府15代将軍)の家臣だった人物です。

彼は、室町幕府滅亡後に織田信長の家臣となっていますが、本能寺の変の直後、細川藤孝はいち早く羽柴秀吉に味方しています。

明智光秀が謀反人であればこそ、この行動は理解できますが、私の説で考えると、この行動は矛盾しています。

なぜならば、細川藤孝の嫡男である細川忠興に、明智光秀の娘(後の細川ガラシャで、以下「ガラシャ」と表記します。)が嫁いでいて、明智家と細川家は親戚関係にありました。

織田信長の命令で親戚関係になったと言われていますが、本能寺の変直後の細川藤孝の行動は、どう考えてもおかしくなります。

直ちに明智光秀を裏切っているのですが、どうも私は腑に落ちません。

しかも、本能寺の変直後、細川藤孝は剃髪し、更に、細川家はガラシャを幽閉しています。

通説では、細川藤孝の剃髪は織田信長が死んだため、と言われていますが、譜代家臣ならいざ知らず、細川藤孝のような外様家臣が、剃髪するほど織田信長に心酔していたとは考えにくいですし、もともと細川家は、足利家の譜代家臣でしたから、元の主君である足利義昭が死んだから剃髪した、というなら理解もできますが。

また、ガラシャについても、明智光秀を裏切ったわけですから、幽閉などせずに離縁するか殺害するかだろうと思うのです。

私の推理では、細川家は、どこまでも明智側(徳川側)で、これらの行動は羽柴秀吉を騙すための工作だったと推理します。

そう考えると、少しは矛盾も解けるかと思います。

実際に、約20年後の関ヶ原の戦いで、細川忠興は徳川家康に味方しています。

細川藤孝の剃髪は、織田信長の死を悼んでのものではなく、表向き羽柴秀吉への恭順の意だと考えます。

頭を丸めることで、羽柴秀吉に対して敵意無し、との意思表示にしたのでしょう。

更に、嫡男の細川忠興も妻であるガラシャを幽閉(正しくは、命を守るために匿った)し、罪人扱いすることで羽柴秀吉への恭順の意を表した、つまり、細川家は羽柴秀吉の味方の振りを装った、ということではないかと推理します。

本能寺の変直後、明智光秀は細川藤孝に書状を送ったらしいですが、その内容は通説で言われている「味方になってほしい」というものでなく、「羽柴秀吉に従うように」と促した可能性があると考えます。

そうすることで明智光秀は、細川家と娘であるガラシャを守ろうとしたのではないか、と考えます。

しかし、ガラシャは後にイエズス会と通じたため、関ヶ原の戦い前に、夫の細川忠興によって殺害されたものと推測します。

明智光秀の同意は得ているものと考えられます。

細川ガラシャの死については、関ヶ原の戦いの真実がRAPT理論で暴かれていますので、それを参照していただければ、夫による殺害の可能性が高いと推測できます。

ちなみに、内閣総理大臣を経験した細川護熙は、細川ガラシャの子孫です。

話を元に戻します。

山崎の戦いで勝利を収めた羽柴秀吉は、織田家乗っ取りを企み、織田信忠の嫡男で三法師(当時は幼子)を織田家相続人と定めました。

そして、織田家の家臣達を取り込み、従わなかった織田家の家臣達を滅ぼしにかかります。

その一人が柴田勝家でした。

賤ケ岳の戦い(1583年)は、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いですが、この戦いにおいて柴田勝家は、織田信長の三男である織田信孝を総大将に据えています。

つまり、この戦いは織田信長の敵討ちだったと考えるのが妥当でしょう。

しかし、羽柴秀吉にはイエズス会の後ろ盾もありましたから、結果的に柴田勝家は敗北し、信長の妹であるお市の方と共に死にました。

本能寺の変後、柴田勝家とお市の方は夫婦になっていますが、これも羽柴秀吉と戦うための結婚だったのでしょう。

柴田勝家の与力であった前田利家については、柴田勝家から離反して羽柴秀吉に服従したために助けたものと思われます。

そしてその後、織田信長の敵討ちとして立ち上がったのが徳川家康であり、織田信長の次男である織田信雄が総大将を務めています。

つまり、小牧長久手の戦い(1584年、羽柴秀吉VS徳川家康)が勃発するのですが、この戦いも織田信長の弔い合戦だったと私は推理します。

通説通り、本能寺の変が明智光秀の謀反という風に考えると、小牧長久手の戦いの経緯が腑に落ちません。

つまり、羽柴秀吉と徳川家康が戦う理由が、よく分からないということです。

通説で考えますと、本能寺の変直後、徳川家康は伊賀越えにより、命がけで逃げたことになっていますが、それは明智光秀が襲ってくる可能性があったからと言われています。

そう考えると、明智光秀を討った羽柴秀吉は、ある意味命の恩人でしょう。

だから、本能寺の変が明智光秀の犯行と考えると、その後に起きた歴史的事象に矛盾点ばかりが起き、理路整然とした説明ができません。

しかも、そう考えますと徳川家康にとって明智光秀は敵方とも言える存在だったということになります。

しかしながら、先の話になりますが、江戸幕府の三代将軍である徳川家光の乳母が、春日局であることは御存じの方も多いと思います。

その春日局とは、一体何者でしょうか。

実は、明智光秀の家臣であった斎藤利三(としみつ)の娘なのです。

敵方の関係者を、幕府に迎え入れていることになり、しかも重要なポジションで登用していますが、このようなことが果たして有り得るのでしょうか。

皆さんは、徳川家康と明智光秀が、敵か味方か、どちらで考えた方が納得できるでしょうか。

徳川家康と明智光秀の関係が、親密な関係であったと考えた方が、納得できると思いますが。

更には、明智憲三郎氏の、本能寺の変は織田信長の徳川家康討ちを、明智光秀と徳川家康が組んで逆手に取った、という説が事実だとすると、これもまた矛盾としか言いようがありません。

織田信長が徳川家康を殺そうとしていたと仮定して、その息子である次男の織田信雄を、徳川家康が自軍の総大将にして戦うことが有り得るでしょうか。

むしろ、織田家を滅ぼしたいくらい憎しみを持つのが普通でしょう。

それこそ、羽柴秀吉と手を組んで、織田家を滅亡させる戦いを行っていた可能性さえあります。

加えて彼らは悪魔崇拝者です。

裏切りに対しては、ものすごい報復を企む連中です。

実際に現代でも、皆さんが知らないだけで、裏切りに対する報復は、殺害されることや、社会的に抹殺することで実行されています。

従いまして、明智憲三郎氏の主張は、読者を真実から遠ざける攪乱書物と言わざるを得ません。

そもそも、明智憲三郎氏が本当に明智光秀の子孫かどうかも疑わしいです。

話を元に戻しますが、小牧長久手の戦いでは、徳川家康が勝利したと言われています。

この戦いでは、羽柴秀吉に加担した、池田恒興などの織田家の家臣だった者たちが死んでいますから、一定程度報復は実現できていたのだろうと思います。

つまり、織田家の家臣の中で、羽柴秀吉に加担した者たちは、徳川家康の立場からは裏切り者となるということです。

小牧長久手の戦いから考えても、織田信長と徳川家康の関係が、それなりに良好な関係だったとしか考えられません。

従いまして私は、本能寺の変は明智光秀が織田信長を殺害した事件とは、どうしても思えないのです。

小牧長久手の戦いで一応は勝利した徳川家康でしたが、その後、豊臣姓を名乗り関白に就任した羽柴秀吉に臣従しています。

また、徳川家康が臣従する直前に、重臣だった石川数正が、徳川家康を裏切り豊臣秀吉に与(くみ)しています。

これも何か裏がありそうです。

ちなみに、徳川家康が臣従を決断した理由は、通説によりますと、豊臣秀吉が母である大政所を徳川家の人質に送り込んだため、と言われていますが、普通に考えて私には理解できません。

徳川家康が臣従した後なら理解もできます。(実際に、和を結ぶための人質交換も行われる位です。)

臣従を余儀なくされる何かが裏側で起きていた、としか考えられませんが、その真相は明らかにされていません。

ここにも隠したい何かがあるということでしょう。

これは現時点では私も推理するのが難しいですが、徳川家康は豊臣秀吉が死ぬまで臣従したことは真実のようですので、ここもいずれ探っていきたいとは思います。

そして豊臣秀吉も、1587年頃に織田信長同様、イエズス会に叛(そむ)いています。

伴天連追放令を出しています。

この頃から千利休との関係も悪化して、最終的に切腹させています。

千利休切腹直前には、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長も死んでいますが、千利休やイエズス会が絡んでいることは明らかであり、病死と伝えられていますが、私は毒殺などによる他殺(犯人は豊臣秀吉、イエズス会、どちらも可能性としてある)と考えています。

また、豊臣秀吉が実行した朝鮮出兵についても、2度も行っているほど熱の入れようですので、ここにも隠された真相があると考えられます。

更には、豊臣秀吉は甥である豊臣秀次とも争っています。

豊臣秀次切腹事件と言われている出来事です。

世継ぎを巡る争い(豊臣秀吉の側室である淀が秀頼を生んだため)と言われていますが、太閤と関白の争いですから、そんな単純なものではないと考えています。

ここでも、イエズス会を絡めた騒動があったのでしょう。

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」で、この事件が描かれましたが、申し訳ないですが、その回のストーリーは愚作と言わざるを得ません。

三谷幸喜の脚本にしては、「よくもまあ、こんなストーリーに仕上げたなあ」と感じるほど、出来が最悪でした。(あくまで私の主観的感想ですし、世間的には称賛されていたかもしれません。)

興味のある方は、真田丸第28回をご覧ください。

また、江戸幕府ができた後、間もなくして豊臣家は滅亡するのですが、大坂冬の陣、夏の陣の真相にもいずれは迫りたいと思っています。

ちなみに、豊臣秀吉が百姓出身というのは、真っ赤な偽りのようです。

豊臣秀吉も、御多分に漏れず悪魔崇拝者であり、身分の高貴な人物であるようです。

実際に、現在の内閣の紋章も、豊臣秀吉の家紋と同じものを使用しています。

果たして、なぜでしょうか。

また、機会があれば、この時代の様々な出来事の背景を推理したいと考えています。

長くなりましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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