両親にサタンが入った記事の「その3」の続きになります。
前回までの記事の中で、私は両親について、「父」と「継母」と表現してきました。
勘の鋭い方はお気付きになるかもしれませんが、私には実の母(以下単に「母」と明記します。)がいて、今も健在です。
神様の祝福とは、今回の件があったことで母と繋がったのです。
実を言いますと、両親とトラブルになってから数日後、お祈りをしていた最中に、ふと母のことが頭に浮かびました。
母とは、ほとんど疎遠状態でした。
5,6年前に、会う機会があったのですが、両親(父と継母)があまり良い反応を示さなかったので、それ以来連絡を取るのを控えていました。
今回、両親とトラブルがあったお陰で、母と連絡を取るにしても、誰に遠慮することも無く行動できたということです。
私は早速、母の自宅に電話をしました。
電話をかけた初日は、うまく連絡が取れず、私は、神様のお導きではなかったのかな、と思いつつも、翌日も電話を入れました。
これで連絡がつかなかった場合は、神様のお導きでは無い、と判断しようと思っていました。
すると、夕方に母と連絡が取れました。
そして、直ちに会う予定が整いました。
福岡(私)と宮崎(母)なので、日帰り往復は少々体力的にきついかな、とは思いましたが、神様のお導きだとしたら大丈夫だろうと考え、直ぐに決断しました。
ただ、母と会って話しても、父と継母と同じように、話が噛み合わないだろうと、半ば諦めの胸中で母の実家へ向かいました。
午前10時くらいに着きました。
久しぶりに対面しましたが、ほとんど変わった様子もなく、元気そうで安心しました。
はじめに、父と継母と関係が悪化したことを話しましたが、その経緯を話していると、なんと、母は、コロナ騒動が嘘であることを知っていたのです。
奇跡が起きたと思いました。
そして私は直ちに、強烈に神様を感じました。
母と私を繋げて下さったのは、神様だと確信した瞬間でした。
驚くほど会話が噛み合い、世の中の真実の話をしても、母が聞く耳を持っているのです。
私の話すことを、ほとんど否定すること無く聞いてくれましたから、会話をしていてストレスを感じませんでした。
父と継母、そして、その身内の連中とは大違い、真逆でした。
やはり、私がキリスト教に辿り着いたのも、母の方の血だと感じました。
いや、絶対にそうだとしか思えません。
勿論、母が真理を受け入れる器を持っていたというのもそうですが、それだけが根拠ではありません。
母との会話の中で、死んだ祖父(母の父)の話が出たのですが、なんと、祖父は12人兄弟だったそうです。
「12」という数字が出てきました。
そうです。
聖書の知識があれば、この「12」という数字が、神様と関係が深い数字であることが理解できると思います。
旧約聖書に出て来る神様が導かれたイスラエル部族(ヤコブの子供たちが祖)の数も「12」であり、新約聖書に出て来るイエス様の弟子の数も「12」です。
このような偶然は無い、と私は勝手に思っております。
ちなみに余談ですが、私の誕生日は9月16日で、9+1+6=16となり、16は1+6=7になります。
そうです。
「7」は神様の数字です。
どこまでも神様を感じずには、いられませんね。
更に、母の誕生日は1月2日と記憶しています。※記憶違いの場合は後日訂正させていただきます。
「1」と「2」です。
これもまた、偶然にしては出来過ぎでしょう。
話を元に戻します。
先ほども書きましたが、帰省自体は日帰りでしたので、13時には出ようと思いましたが、話が弾んだお陰で、14時半くらいになりました。
それくらい、充実した時間を過ごすことができました。
もう、本当に神様に感謝しかありません。
母がなぜ、コロナのことなど、世の中の本当の有様を知るようになったのかと言いますと、身近に、世の中のことを熱心に調べている人がいるようで、その方から様々な情報を仕入れていたようです。
それがいつ頃からの出来事なのかは分かりませんが、神様が、私と母が会う時を与えて下さったとしか思えません。
タイミングが早すぎても会話が噛み合わなかったでしょうし、遅すぎたらもっと早く会っていれば良かったと思い、後悔の念に晒されていたかもしれません。
絶妙のタイミングとしか思えません。
これがまさに、神様がお与えになる「時」だと言えるでしょう。
宮崎の田舎な場所で、世の中の真実に目が開かれて、キリスト教への偏見も持たずに生きていけるということこそが、奇跡的であり、神様の祝福と言えるでしょう。
ただ、母もコロナのワクチンは打ったようです。
しかし、このことも神様がきっと守って下さると信じています。
それにしても、父や継母は、世の中の真実のことや、キリスト教のことを話した時に、「人に押し付けるな」と私に言いましたが、やはりサタンが言わせた言葉と言わざるを得ません。
逆ですよ。
真実を人に押し付けて何が悪いのか、キリスト教という唯一無二の善良な宗教を押し付けて何が悪いのか、と言いたいです。
押し付けるという表現は多少語弊を感じますが、どんどん人々に勧めるべきことなのです。
父や継母は、世の中の嘘や矛盾を受け入れないでいるのですが、これこそが神様の裁きなのです。
永遠の救いを失ったわけですから、哀れと言いますか、自業自得と言いますか、残念でなりません。
つまり、私を通して救われる可能性があったのに、それを神様がお許しにならなかったということでしょう。
しかし、私を迫害したことを後悔し、悔い改めて考え直すようであれば、神様もお許し下さると思いますが、現時点では無理な話でしょう。
しかも、実を言いますと、母との会話の中で継母の話が挙がりました。
会話の流れで出た話なのですが、私は一瞬驚かされましたが、同時に、妙に納得してしまいました。
母は継母について、「そういえば、あの当時、友達に『○○(父の名前)は、変な女に引っかかったみたいだぞ。』と言われた。」と教えてくれました。
その「変な女」とは、継母のことです。
どうやら継母は、男癖が悪かったようで、周囲からの評判は悪かったようです。
私の勘が当たりました。
前回の記事で、継母が人に好かれるような性質の持ち主とは思えない、と書きましたが、それを確信する瞬間でした。
当然ながら、私にとっては初耳でした。
このことについても、神様が母を使って真実を教えて下さったのではないかと感じています。
噂の域を超えていない、と言われればそれまでかもしれませんが、その噂が本当かどうかは、実のところ大した問題ではありません。
そのように、継母について悪い噂が出る、ということが問題なのです。
皆さんも身近な人達を思い浮かべてみるといいでしょう。
善良な人というのは、ほとんど悪い噂は立ちません。
妬みなどで悪い噂が流されるということはあるでしょうが、圧倒的に良い話の方が出てきます。
それに引き換え、悪を働いている人の良い噂は、まず聞きません。
たまに良い話が出ても、それを打ち消すくらい悪い話や、人に嫌われている話が出てきます。
私が前に勤務していた会社の社長がその典型でした。
実際に接すると良い人に見えるのですが、周囲から聞こえてくる評判は、いつも悪いものでした。
そして、裏で悪事ばかり働いていることが発覚し、遂には犯罪に手を染めて、逮捕される憂き目に遭いました。
継母についても、私も直に接してきましたので、母の話を聞いた時『さもありなん』と思いました。
つまり、継母の噂の信憑性は極めて高いと言わざるを得ません。
勿論、母が嘘を付いた可能性も否定できませんが、わざわざ母が継母のことで嘘を話す理由がありませんし、とっさに思いついた嘘にしては、辻褄が合うと感じました。
過去に私は、継母とも何度か直接様々な話をしたことがありました。
継母本人の話をしたこともありましたが、彼女は肝心な部分を私には一切話さなかったということです。
裏側で不倫などの大悪を働いていたわけですから、神様に裁かれて当然ですね。
2023年からは、この世の中に神様の力が強力に臨んでいますので、聖書の御言葉通り、「隠されているもの(密かな悪)であらわにならないことは無い」、という聖句が現実に起きたと言えるでしょう。
父にしても、継母にしても、不倫を行っていましたから、私から見れば、吐き気のするような、本当に許されない行為です。
不倫は、周囲の人達を不幸や不快にしかしませんから。
私も異性の堕落については人のことは言えませんが、もしも結婚した場合は、子供たちの心を傷付けることの無いよう、離婚だけはしないぞ、と思っていました。
今も思っています。
今回、私のことを強烈に批判してきた父と継母ですが、私は改めて言いたいことがあります。
あなた方が離婚したことによる、私と妹の幼少期の心の傷に対する責任はどう考えているのか、と。
私を面倒見たお金はお金で償えるでしょうが、心の傷はお金では決して償えません。
もっと言えば、私を面倒見たお金以上の責任が親としてあるでしょう。
そのことを忘れて、一方的に私が悪いと考える父と継母は、神様から裁かれて当然です。
父が離婚せず、継母が離婚しなければ、この二人が再婚することも無かったはずです。
まして、不倫といった、異性の堕落の中でも最低な振る舞いをしておきながら、私のことを批判する資格がどこにあるのか、と思います。
以上のように、父と継母との関係が破綻し、その代わりであるかのように、母と繋がるという出来事が起きました。
これこそが神様からの祝福です。
神様が捨てなさいと仰せになるものを捨てると、必ずその倍となる祝福が与えられます。
今回は、その典型的な出来事だったと言えます。
これは私だけでなく、母にとっても祝福であると言えます。
70歳になって、残り少ない人生となっている中で、息子と再び繋がったわけですから、母にとっても喜びだったと感じます。
一方で、特に父の方は、残り少ない人生となっている中で、息子を失う結果になりました。
推測するに、父の精神状態は地獄かもしれません。
そうだとしたら、神様から強烈に裁かれています。
まあ、裁かれても仕方がない人生を送ってきたわけですから、同情の余地はありません。
私がひどい人間のように感じる方もいるかもしれませんね。
しかしながら、「情」をかけることほど、愚かなことはありません。
「情」は善悪の判断を、大いに鈍らせます。
ましてや、神様が捨てるように促された人間に、私が情をかけることはありませんし、愛も与えません。
もっとも、神様が繋げて下さる人間に対しても情をかけることはありませんが、愛は与えたいと思っています。
聖書にも、第一に神様を愛し、第二に隣人を愛しなさい、という掟がありますから、このことをしっかり守るのみです。
これからも、神様に相談し、神様がお示しになる道を進んで行こうと思っています。
真に正しい道に進むため、神様を信じて真理を豊かに蓄える人間になれるよう努めていきます。
神様、この度は本当にありがとうございました。
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