これが隣人愛だと感じました。

キリスト教

約2週間前の出来事でした。

私は車の運転中で帰宅途中でした。

信号停車中での出来事でした。

歩行者用信号が点滅しだしたにもかかわらず、車椅子の方が横断しようとされました。

信号待ちしていた自転車の若者が、すぐさま自転車から降りて、車椅子を押して横断の手助けをしたのです。

写真でも撮影して、その様子をお見せすることができたら良かったのですが、思わず感動してしまい、撮影することに意識が向きませんでした。

その若者の行動については、私も見習わなければ、と改めて思いました。

まあ、厳密にいますと、歩行者用信号が点滅した時点で、横断しようとする歩行者や自転車は横断禁止です。

横断中の人は速やかに横断し終えるか、引き返して横断を中止するかしなければなりません。

そのように道路交通法で定められています。

従いまして、当該車椅子の方は、厳密には信号無視をしたことになり、自転車の若者は法令違反に加担したことになりますね。(笑)

正しくは、横断を中止させる対応を取るべきであったとは思います。

いや、そんなことはどうでもいいのです。(どうでもよくないかもしれませんが。)

車椅子の方は、少々無理をして押していた様子が伺えましたから、実を言いますと、私も見ていて心配になったくらいでした。

信号の変わり目に絶対間に合わないと思ったからです。

しかし、傍にいた若者が機転を利かして、車椅子の方を押して横断を速やかにできるようにしてくれたのです。

何ともすばらしい光景ではないですか。

道路交通法違反など、大した問題ではありません。

この世の中にも、このようにまだまだ人間味の溢れる人間がいるのだと思うと、希望が湧いてきます。

しかも、見た目は20歳前後の若者だったというのが、なお良かったと思えます。

これが隣人愛の一つなんだろうと感じた瞬間でした。

聖書にも以下のような聖句があります。

新約聖書 ルカによる福音書 10章25節~37節                                 善いサマリア人                                                  すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋に主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

実を言いますと、私自身もこれに近い状況に遭遇したことがありました。

勿論、追いはぎに襲われた人に遭遇したわけではありません。

今のご時世では、追いはぎに遭うケースは、まず無いでしょう。

昨年末(2022年末)の出来事でした。

負傷して道端に座り込んでいる年配の女性を発見したのです。

会社の事務所のそばでの出来事だったのですが、コンビニに向かう途中で私は、まさにこの聖句通り、年配の女性を見て見ぬふりをするように、向こう側の歩道を歩いていました。

そうしますと、犬の散歩をした若い女性が、座り込んでいるその年配の女性に近づいて行きました。

私は、ハッとして、この聖句が頭をよぎり、「いかんいかん」と思い、私もその年配の女性のそばに行きました。

どうやら転んで足を負傷したらしく、幸い、すぐそばに病院(整形外科)がありましたから、年配の女性の荷物を若い女性に委ね、年配の女性は歩けるようでしたから、私は手を取って支えながら病院へ向かいました。

病院に入ると、看護婦の方々が「〇〇さん、どうしたと(驚)」と一斉に年配の女性に声を掛けていました。

どうやら、その病院の常連の患者さんだったようです。

私は、犬の散歩をしていた若い女性にお礼を言って、コンビニへ向かいました。

もしも、犬の散歩をしていた若い女性に遭遇しなければ、私は年配の女性を見捨てていたかもしれません。

とんでもない過ちを犯すところでした。

おそらく、神様が私を天からご覧になられて、その若い女性を使って、私に隣人愛を示されたのではないかと感じました。

ここで皆さんに誤解をしてほしくないのは、「困っている人を助けることが隣人愛」とは限らない、ということです。

「困っている人」の条件が必要なのです。

聖書の聖句の場合、追いはぎに襲われた人は、追いはぎに襲われたくて襲われたのでしょうか。

そんなことはありませんよね。

また、私のケースのように、年配の女性は、負傷したくて故意に転倒したのでしょうか。

そんなことはありませんよね。

また、車椅子の方は、誰かに手伝ってもらえることを期待して、横断しようとしたのでしょうか。

そんなことはありませんよね。

では、ギャンブルに負けた人がお金を貸してほしいと言ってきた場合、お金を貸してあげることは隣人愛でしょうか。

ギャンブルに負けた人は、どうせ負けても誰かがお金を貸してくれると期待しながらギャンブルをしたのでしょうか。

はい、そうです。

その人は、自業自得で困ったわけです。

どこまでも、自分の利益を求めた結果、不利益を被り、困ったわけです。

もしも、そんな人にお金を貸したら、どうなるでしょうか。

おおよそ、なかなか返してもらえないのではないでしょうか。

そして、その人を責めたり、悪口を言ったりしてしまう羽目になるのです。

このように、手を差し伸べた結果、トラブルになるような場合は、その行為は隣人愛には当たりません。

ただし、お金を貸すのではなく、あげるのであれば、隣人愛になるのではないかと考えがちですが、果たして本当に相手のためになるでしょうか。

このケースの真の隣人愛は、お金を貸さずに本人の過失を指摘することではないでしょうか。

まあ、相手はあなたのことを憎むでしょうけど。(笑)

私も過去に、お金を貸すことを拒否して説教したことがあり、その相手から嫌われました。(笑)

私自身が金銭的堕落が激しかったので、下手にお金を貸すとどうなるか、誰よりも分かっていました。

従いまして、何でもかんでも隣人愛に結び付けて考えることは危険です。

ただし、困っている人を見かけたならば、まずは救うことを考えることが大切でしょう。

あとは、状況判断を正しく行える知恵が必要ですが、そこには信仰が必要になる、ということです。

正しい隣人愛は、信仰を持ってこそ行うことができる、ということです。

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