歴史というのは、必ず一本の線で繋がっています。
突然、とある出来事が起きるということはなく、豊臣秀次切腹事件についても、必ず伏線となっている出来事が過去に起きているのです。
一つ一つの出来事を点と捉えて一生懸命考えたところで真実は見えませんし、それどころか、嘘を信じるしかなくなります。
豊臣秀次切腹事件についても、突然起きたように説明されているところもあり、通説には不自然さしか感じません。
豊臣秀次とは、豊臣秀吉の甥にあたる人物で、豊臣秀吉に後継ぎとなる実子がいなかったために、その養子となり豊臣秀吉の後継ぎとして関白に就任しましたが、この関白就任も千利休切腹事件と繋がっています。
つまり、千利休の処刑の後、豊臣秀吉の実子と言われている鶴松が、突然病死しているのです。
鶴松の死んだ日は、1591年9月22日とウェキペディアにあります。
千利休の死んだ日は、1591年4月21日でした。
これも、秦氏側(イエズス会)の報復としか思えないほどの、都合の良い病死です。
このようにいつの時代も、悪魔崇拝者は、殺し殺されを繰り返しているということです。
この鶴松の死によって、豊臣秀吉に実子がいなくなったため、甥である豊臣秀次に関白の位を譲って後継者としたということです。
NHK大河ドラマでも豊臣秀次は数多く登場するのですが、どのドラマも彼のことを馬鹿で無能で女好きで愚か者のような人物として描いています。
まあ、豊臣秀吉の家族が百姓という設定なので、このような描かれ方をしても違和感は生じないのでしょうが、豊臣秀吉、そして、その家族が百姓であることは大嘘で、れっきとした血筋の家柄です。
そのことは、頑丈に隠されています。
従いまして豊臣秀次も、悪魔崇拝者の間では、それなりに有能な人物であったと考えられます。
そうでなければ、豊臣秀吉の後継ぎになれるわけがありません。
しかも、豊臣秀吉は世界初のNWO(世界統一政府)を実現した人物です。
そのような人物の後継ぎが、馬鹿で無能で愚か者であれば、豊臣秀吉亡き後、豊臣家が簡単に潰される危険性すらあります。
女好きに関しては、悪魔崇拝者であれば普通の事であり、もっと言えば同性愛者であっても何ら不思議ではありません。
ここで、豊臣秀吉がNWOを実現したことについて、「世界ではなく日本国内の話ではないか」、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、悪魔崇拝者は世界中で繋がっています。
秦氏、出雲族、李家(いわゆる黄色の勢力)といった悪魔崇拝者は、日本国内だけでなく世界中に存在しています。
つまりは、みんな偽ユダヤ人であり、出所はほとんど同じであり、昔から世界のあちこちに散らばって、争い続けているということです。
日本、アメリカといった国単位でみると分かりにくいですが、例えばアメリカでも秦氏と出雲族が存在し争い合っていますし、韓国は出雲族、北朝鮮は秦氏、中国は秦氏と李家、と言われています。
韓国と北朝鮮は仲が悪いですが、出雲族と秦氏だから仲が悪い、単純な話なのです。
少々話が反れましたが、これから書かせていただく豊臣秀次切腹事件も例外なく、秦氏VS出雲族ではないか、というのが私の推理です。
つまり、豊臣秀吉は出雲族として、豊臣秀次は秦氏として、両者が争い、豊臣秀次が破れて処刑された、ということです。
豊臣秀吉は、豊臣秀次の事件を謀反と捉えている辺りを踏まえますと、やはり豊臣秀次がイエズス会に取り込まれたか、手を組んだかということではないかと推理します。
そこで、私が考える豊臣秀次切腹事件の伏線として、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵を挙げたいと思います。
豊臣秀吉は、日本でNWOを成し遂げて、次の標的を李氏朝鮮に定めました。
文禄の役と慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵のことですが、文禄の役が伏線となっているのではないかと考えます。
ちなみに、豊臣秀次の関白就任は1591年、文禄の役は1592年に起きています。
日本国内のことは豊臣秀次に任せて、豊臣秀吉は朝鮮出兵に専念したということでしょう。
この時代の朝鮮半島は李氏朝鮮と呼ばれ、私は李氏朝鮮とイエズス会の関りがあったため(もしくは発覚したため)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を決意したのではないか、と考えます。
もしかすると、伴天連追放令を宣布した時から李氏朝鮮への出兵は考えていて、日本国内の統一を急いだ、とも考えられ無くもありません。
そこで、李氏朝鮮とイエズス会との接点が無いか調べてみましたが、ウェキペディアに「韓国のキリスト教」とありました。
その中に、興味深い一文がありました。
歴史 伝来初期(3行目) 朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、文献で確認できる限りでは、1593年に文禄・慶長の役に参加していたキリシタン大名小西行長の求めに応じて朝鮮に渡ったイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが最初である。
つまり、イエズス会が李氏朝鮮に渡っているということです。
おそらく1593年というのは偽りで、もっと早くからイエズス会が李氏朝鮮にも渡来していたとしても何ら不思議ではありません。
「1593年が最初」というのが偽りだと私が考えた理由は、豊臣秀吉の伴天連追放令(1587年)で、先ほど出て来たイエズス会司祭のグレゴリオ・デ・セスペデスは、長崎の平戸へ行ったと書かれてあるためです。
皆さんもご存じの通り、長崎県から朝鮮半島は目と鼻の先です。
日本での侵略計画が上手くいかなくなりつつあったイエズス会が、李氏朝鮮と手を組もうと考えたか、李氏朝鮮を侵略しようと考えたか、と推理しました。
余談ですが、キリシタン大名=キリスト教に入信した大名、というのも大嘘で、イエズス会はキリスト教を布教していたのではなく、「クロ宗」という悪魔教を広める活動を行っており、キリシタン大名=クロ宗大名と言っても過言では無いのかもしれません。
フランシスコ・ザビエルは、学校でも習う有名な人物ですが、その人を描いた絵は、なぜか手に心臓を持っているのです。
そして、こちらの記事をご覧いただくと、クロ宗のことがお分かりいただけます。
イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
話を元に戻します。
また、文禄の役と慶長の役をウェキペディアで調べてみると、またまた興味深い単語を見つけました。
「朝鮮征伐」という表現が歴史的に頻繁に用いられている、そうです。
まあ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代のことは、隠されていることが多過ぎますね。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、表向きは明(現在の中国)を征服するため、と言われていますが、明らかに朝鮮半島の侵略を目論んで戦争しているとしか思えません。
そして、明の征服、李氏朝鮮の征服を企んだ理由、経緯など、明確で納得のいく説明が全く成されていません。
もしも本当に明の征服が目的ならば、普通、李氏朝鮮とは和睦交渉を行うはずではありませんか。
そのような通説が全くありません。
それどころか豊臣秀吉は、朝鮮出兵に備えて九州の肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に城を築き、明らかに臨戦態勢を敷いています。
私は世界史をあまり勉強してきませんでしたから、この時代の世界情勢を知る必要はあると思いますが、明と李氏朝鮮が同盟関係にあったのかもしれません。
いずれにしましても、私は次のように考えます。
李氏朝鮮にイエズス会(秦氏)が進入し、それを李氏朝鮮が受け入れたため戦争を行った、ということです。
明の征服と言うよりも、李氏朝鮮の征服が目的です。
そのように考えますと、日本軍が李氏朝鮮で激しく戦争を行った理由も理解できるというものです。
「朝鮮征伐」と表現する意味も理解できるというものです。
出雲族側としてNWOを成し遂げた豊臣秀吉が、イエズス会の支援を受けて秦氏に加担した李氏朝鮮を征伐しようとした戦争が、文禄の役と慶長の役だということです。
要するに、この時代も世界規模で秦氏勢力と出雲族勢力が争い合っていたということです。
そういう意味では、豊臣秀吉は将来的には明への戦争も目論んでいたと考えられますが、少なくとも朝鮮出兵は、李氏朝鮮を征伐することが目的だったと考えます。
豊臣秀吉の野望は、どこまでも世界規模のNWOだったのかもしれません。
そして、1593年に文禄の役(第一次朝鮮征伐)は、休戦となった(事実上、豊臣秀吉の出雲族側の勝利だと考えます。)ようですが、同じ年に豊臣秀吉にとって大きな出来事が起きます。
待望の実子、豊臣秀頼が誕生しました。
朝鮮戦争で又しても劣勢に陥ったイエズス会が秀頼誕生を好機と捉え、豊臣秀次に接近して勢力の回復を目論んだ、と私は推理します。
もしも文禄の役でイエズス会が勝利していれば、豊臣秀次切腹事件は起きていなかったかもしれない、ということです。
文禄の役が豊臣秀次切腹事件の伏線になったと推理した理由は、以上です。
この時点(文禄の役の休戦時点)では、豊臣秀次には豊臣秀吉と敵対する意思は無かったと推測します。
その2に続きます。
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