大坂の陣も秦氏VS出雲族であり、関ヶ原の戦いの延長戦だった?(その1)

歴史

前回の記事で、「戦国時代を離れて」と書きましたが、「大坂の陣」を推理してから戦国時代を離れなければなりませんでした。

「大坂の陣」とは、徳川幕府VS豊臣家であり、この戦争を最後に、江戸時代は明治維新まで大きな戦争が国内では起こりませんでした。

江戸時代というのは、長く徳川の天下の時代でありましたが、正確には、出雲族が秦氏を抑えて天下を手中に治めていた時代でした。

一見すると徳川家康によって、日本国内において出雲族によるNWOが成し遂げられた時代のように思えなくもありませんが、その時々に応じて大なり小なり秦氏が戦争を仕掛けていますので、NWOが成し遂げられた時代とは言い難いかもしれません。

例えば、徳川家光の時代には、「天草四郎の乱(島原の乱)」が起きていますし、徳川綱吉の時代には、赤穂浪士による事件も起きていますが、おそらくはいずれも秦氏による犯行(反抗)ではないかと考えられます。

さて今回は、大坂の陣の真相を推理してみたいと思いますが、その前に豊臣秀吉の死去から関ヶ原の戦いまでのことを推理してみたいと思います。

まず、私が以前より疑問に思っていたことがあります。

それは、関ヶ原の戦いの恩賞沙汰を徳川家康が取り仕切った際、豊臣家の禄高を大幅に減俸している点です。

世に出回っている関ヶ原の戦いとは、豊臣家の家臣同士の争い、つまり、徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍と伝えれています。

この説を前提としますと、どちらも豊臣家の家臣として戦争をしているのにもかかわらず、なぜか主君格の豊臣秀頼が、家臣の立場である徳川家康から所領を没収されているのです。

どう考えてもおかしな話、いや、有り得ない話です。

しかしながらRAPT理論により、関ヶ原の戦いは豊臣家の家臣同士の戦争ではなく、秦氏VS出雲族の抗争だったと分かった時に、この謎も解けました。

関ヶ原の戦いにおいて、豊臣秀頼は秦氏側、即ち、イエズス会側として戦争をしていたということです。

もっと言いますと、豊臣秀吉が死去した1598年から関ヶ原の戦いが起きた1600年の2年間に、徳川家康は豊臣家の家臣格で無くなった、いや、豊臣家と徳川家は敵味方に別れた、ということです。

だから、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康によって豊臣秀頼が処分を受けた、という内容に筋が通って来るのです。

そして、この時の出来事と大坂の陣は繋がっていると考えた方が、その間の歴史がより分かり易くなると考えられます。

話は少し反れますが、2000年のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」では、豊臣秀吉死去から関ヶ原の戦いまでの2年間を、十数回に渡って濃く描いていました。

つまりは、その2年間を我々庶民に洗脳したかったということだと思います。

あの内容を見たら、誰もRAPT理論を受け入れないでしょう。

石田三成を主人公的な描き方(悲劇のヒーロー)をすることで、真実から遠ざけたわけですが、それ位、この2年間の内容は重要な真実が隠されているということなのでしょう。

話を元に戻します。

豊臣家が徳川家康によって処分されたと言いましたが、豊臣秀頼の禄高は、関ヶ原の戦い以前は約220万石でしたが、関ヶ原の戦いの直後、約65万石まで減らされています。

明らかに処罰レベルです。

豊臣秀吉は元々秦氏側の人物でありましたが、秦氏側を裏切り出雲族側に加担し徳川家康と手を組んだわけですが、豊臣秀頼は徳川家康を敵に回して秦氏側に寝返った(元の鞘に収まった?)ということになります。

ちなみに、豊臣秀頼が秦氏側に与したという根拠は、通説で言うところの西軍の総大将として据えられた毛利輝元が、大坂城に入城している事実から言えます。

RAPT理論により、毛利輝元はイエズス会側(秦氏側)として戦っています。

毛利輝元が大坂城に入城したことが、豊臣秀頼が徳川家康の敵となった証拠です。

従いまして、関ヶ原の戦い以降、豊臣家は秦氏側として生き延びていたということになります。

しかしながら、なぜ豊臣家は秦氏側、つまり、イエズス会側に寝返ったのでしょうか。

豊臣秀吉が生きていた時代は、イエズス会を迫害し、出雲族側に与していました。

従いまして、豊臣秀吉死去から関ヶ原の戦いまでの2年間は、やはり、極めて重要な2年間だったのではないかと推測します。

まず、豊臣秀吉死去により、徳川家康によって朝鮮戦争の終結が宣言されます。

私が推理した、朝鮮戦争が秦氏VS出雲族であるならば、徳川家康も朝鮮戦争継続という立場を貫きそうですよね。

しかし、豊臣秀吉死去により、秦氏側が息を吹き返す可能性が高まった、ということではないでしょうか。

つまり、日本国内において、豊臣秀次の謀反以来、イエズス会が盛り返していた可能性があるのです。

そうしますと、朝鮮で戦争をしている余裕など無くなります。

日本国内における秦氏(イエズス会)との抗争に備えて、徳川家康が朝鮮から日本軍を撤退させた、と考えた方が自然ではないでしょうか。

少し話が反れるかもしれませんが、私が実に怪しい存在と考えている人物が淀です。

淀とは、別名を茶々といい、浅井長政とお市との間に生まれた女性ですが、お市は織田信長の妹です。

従いまして、淀は織田信長の姪になります。

私の過去の推理では、織田信長と明智光秀と徳川家康は、イルミナティとして結束していた関係だと考えていますから、私の推理では淀が徳川と繋がっていると考えることになります。

その人物が、豊臣家の後継者となる豊臣秀頼を産んでいるのです。

またまたNHK大河ドラマの話になりますが、1996年の「秀吉」では、お市(演=頼近美津子)が茶々(淀)(演=松たか子)に対して「秀吉を殺せ。」と命じる場面が描かれています。

もしかすると、この「秀吉」は、所々真実が描かれているのかもしれません。

本能寺の変に千利休が絡んでいるのを描いたのも、この「秀吉」でした。

淀について私が思うのは、徳川家康と明智光秀(南光坊天海)と通じていて、豊臣家の弱体化を謀るためのハニートラップのような存在、もっと言いますと、徳川方のスパイだったのではないかと考えるのです。

そうしますと、豊臣家が秦氏側に与する理由も納得できる気がしてきます。

つまり、豊臣秀吉が出雲族側に与しましたが、再度、秦氏側と手を組ませて徳川と戦争をする口実を作り、豊臣家を倒す、という企みが徳川方にあったという推理です。

もっと言いますと、豊臣家を利用してイエズス会共々、秦氏側勢力を一掃する企みだった、という推理です。

そう考えますと、豊臣秀次が謀反を起こしたことも、彼が秦氏と手を組まざるを得ない状況に徳川方と淀が繋がって仕向け、豊臣家の弱体化を謀ったとも考えられなくもないのです。

そして、豊臣秀吉に対して、毎日のように呪詛を行い、少しずつ毒を盛り病死させた、つまりは暗殺した、という私の推理です。

豊臣秀吉の死後、豊臣秀頼が後継者となり、淀が政治的実権を握っていましたが、淀と徳川家が結託して、豊臣家を秦氏側に寝返らせた可能性が強いと私は考えます。

世の中の専門家の説に、豊臣秀吉死後、徳川家康が淀を妻として迎えるような説がありますが、遠からずと言いますか、徳川家康と淀の繋がりを隠したいための説かもしれませんね。

何せ、明智光秀が南光坊天海として生存しているわけですから、豊臣秀吉やイエズス会に対する復讐の念は想像するに余りあります。

豊臣家が秦氏側に寝返ったのは、出雲族側の陰謀、策略だったというのが私の推理になります。

更に、深く見ていきたいと思います。

豊臣秀吉が死ぬ直前に「五大老」と言って、豊臣秀頼を補佐する役目として、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の五人が任命されていますが、実は、豊臣秀吉が死んですぐに、前田利家が死んでいます。

前田利家は、徳川家康を抑えられる唯一の人物と言われていました。

その人物が豊臣秀吉が死んですぐに死んでいるのは、偶然では無いでしょう。

徳川方(出雲族側)によって暗殺された可能性が高いと考えます。

実際にその直後、後継者の前田利長は、徳川家康暗殺を計画していた節がありましたが、未然に発覚してしまいました。

そのせいで、徳川家康による加賀征伐が実行されようとしましたが、母親(前田利家の妻)を人質に出すことで許されています。

そして、次に徳川方(出雲族側)が狙いを付けたのが上杉景勝でした。

世に言う「会津征伐」です。

実を言いますと、この直前に徳川家康はこの時代の真相を解く重要な人物と面会しています。

それが、ウィリアム・アダムスというイングランド(現イギリス)人です。

多くの方がご存じかもしれませんが、三浦按針その人です。

ウィリアム・アダムスのウィキペディアの一部に、以下のように記載がありましたので、ご紹介します。

やや長文になりますが、是非読んでもらいたい箇所で、青太字にした部分が核心箇所になります。

「日本漂着」                                                        関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後国臼杵(うすき)の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉(おおたかずよし)の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。              広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。                                  「家康の引見」                                                     結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、合わせて船も回航させた。                               5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

RAPTさんが解かれた「関ヶ原の戦いがイエズス会とエリザベス一世との代理戦争であった」ことを示唆していると考えられます。

しかも、出雲族と秦氏が紛争を引き起こしていることが書かれていますし、出雲族をプロテスタント、秦氏をカトリックと表現していますね。

ちなみに、エリザベス一世とは、イングランド女王で出雲族側の人物です。

そして、会津征伐が行われようとした日付は、慶長5年6月2日です。

時系列で追いますと、ウィリアム・アダムスらのイングランド人が日本に来たのが慶長5年3月16日、徳川家康が彼らに会ったのが慶長5年3月30日、そして会津征伐が慶長5年6月2日ですから、関ヶ原の戦いの前哨戦として、会津征伐が行われようとした、ということです。

この会津征伐の際に、徳川家康は江戸城に戻っているのですが、ウィキペディアに書かれた内容と見事に一致します。

つまり、エリザベス一世の意を受けていたイングランド人と江戸城で会うためだったというわけです。

ちなみに、なぜエリザベス一世が日本に侵入してきたのかと言いますと、申し上げるまでもなく、イエズス会の陰謀を阻止して自分らの利益を得るため、即ち、出雲族が秦氏を倒すためだったということです。

それくらい、この時期の日本(アジア含)におけるイエズス会の動きは、世界中の出雲族から見ても脅威的だったということでしょう。

そして、エリザベス一世から武器を調達できて戦争をするための条件が揃った徳川家康が、イエズス会(秦氏側)への宣戦布告として、会津の上杉景勝を狙ったのでしょう。

つまりは、上杉景勝はイエズス会側(秦氏側)であったというわけです。

そして、イエズス会は豊臣家を取り込み(「日本漂着」の箇所にそれとなく示されていますね。)、エリザベス一世の企みを封じ込めようとして、五大老の一人である毛利輝元を大坂城に呼んだということでしょう。

しかしながら、イエズス会が豊臣秀頼を取り込めたのも、徳川家康の策略だった可能性も否定できません。

先にも書きましたが、淀の存在はやはり怪しいと感じます。

豊臣と徳川が敵味方となるように工作をしたということですが、もしかしますと、豊臣秀頼さえも徳川家康と通じていた可能性があります。

だから、関ヶ原の戦後処理で、豊臣家の禄高が65万石ほどに減らされるのも、予定通りだった可能性があるということです。

この時点で、豊臣家を滅亡させなかったのには、絶対に理由があるはずですが、それが大坂の陣へと繋がるのかもしれませんね。

さて、私の勝手な疑問なのですが、豊臣秀吉と淀の間に生まれた最初の子供である鶴松ですが、彼の肖像画がどう見ても、2歳3か月の命だった幼子に見えないのは私だけでしょうか。

何が言いたいのか、つまり、豊臣秀頼と同一人物の可能性は無いのかな、ということです。

鶴松は死んだことにしてどこかに匿い、数年後、豊臣秀頼として再び登場させた、ということです。

まあ、考え過ぎでしょうかね。

次回は、大坂の陣について推理しますが、豊臣秀頼に関する驚くこと(?)をご紹介することになります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました